書くにあたって

                                             関本 文靖

 

 「フー、良かったね。これでゆっくり休暇が取れるね」。カナダ人のデニースは久しぶりに僕の顔を見るとそう言った。「冗談じゃない、のんびり・ゆっくりなんて過ごせるわけないじゃないか」、そう言いたかったけど、言わなかった。少しは自分でも、そう思いだしていたからだ。それは、手術後2カ月ほど経った時のことだった。
 2000年の9月、「何事もなく過ぎるか2000年」と思っていたところ、体調が優れない。仕方なく、生まれて初めてのように珍しく病院に行った。近くのクリニックで、急性胃腸炎との診断。薬を飲むも、お腹の調子は良くならない。
 年の終わりの11月、総合病院での精密検査の結果、大腸ガン。しかも、かなり進行しているらしいとの診断。パニックに陥って、手術・療養生活の身となりました。
 予後(術後)の経過は良く、ひと安心。ひょっとしたら生きられるかな、と思いかけた四ヵ月後、肝臓に陰が見つかり、数回の精密検査の結果、98〜99%転移ガンと告げられた。
 内心、夏からは仕事を始めようと決心していた僕には、ショックだった。初めの告知よりショックが大きかった。何故なら、最初の告知には、ガン患者の半数は助かるという思いがあった。しかし、今回の告知で、生存率は更に半分になった。
 大腸の進行ガン(近接臓器もしくはリンパ節に転移)の五年後の生存率は、30〜40%、大腸から肝臓への転移癌の手術後の生存率は更に下がる。ひどい数字だった。ガンでの死因はほとんどの場合、多臓器不全。
 つまり、あちこちガンが転移して、手がつけれなくなって亡くなっていく。一度は助かると思った思いが、急に消えてしまった。
 その2度日の告知の日、家に電話した後、僕は釣り道具を買いに行った。しかし、僕にはその記憶はなかった。後で夏江さんにその話を聞いて思い出した。その時、夏江さんは「釣りにでも行くのなら大丈夫だ」と安心したらしいけど、僕は自分が何をしたのか忘れるほどショックだったらしい。

 主治医も、セカンド・オピニオン・ドクター(抗ガン剤を使わないガン治療をしている医者)も、手術を勧めた。悩んだ。特にセカンド・オピニオンのドクターが、「ガンはそんなに簡単に消えるものではない。石や岩、ばけものようにどうしようもない。取れるものなら取った方が良い」と言われ、なかなか決断がつかなかった。
  一方、新聞を見ると、毎日のように本の紹介がある。『ガンが治った』『末期ガンが消えた』『見る見るガンが消えていく』、一体、何が本当なのだろう。その時すでに、ガンに効果があるとされることをし、副作用のないものを飲んでいた。
 神仏にすがる思いで手術を延期してもらった。

  結果、一年半が経った。半年前、肝臓に二つあった影が少し薄<なり、血液検査の結果も何とかパスしている。検査の結果次第では、即入院の可能性もあり、怯える日々ですが、なんとか楽しく過ごしています。
 以前、僕にとってもガンや病気はまったくの無縁の世界。突然の絶体絶命。人生、何が大事か、何が無用だったか、ガラっと変えざるを得ませんでした。新しい人生となる機会を与えられ、それが生かされるのか。
 この1年半、自分の病気がどういうものなのか、どうしたらいいのか、何を考えてきたのかを、タイ・ラオスへの二度の旅行を通して皆様に知っていただきたいと思って、この本を書くことにしました。

  後半部分には、現在行なっている私の治療について、少し書かせてもらいました。色々調べても、医療のデータは少ないし、真実が確かめようのないことが多いようです。また、お金の掛かるものも多いのですが、どなたでもできるもの・あまり知られてないものを含めて紹介しようと考えます。参考になったら幸せです。
 手術前後は、一カ月生きられるかどうか、三カ月生きられたらいいな〜と思っていた僕ですか、だんだん贅沢になり、今では、後3年、10年と伸び続け、生きている喜びさえ忘れがちになります。白身の欲の深さに驚く今日この頃です。本当に皆様の愛情で生かされてきました。
 自戒を込めて、入院中毎日病院に通ってくれた大切な夏江さんや家族・友人・師と仰ぐ皆様方にこの本を捧げます。


               2002年4月18日

 

         

 

関本 夏江

 2000年11月下旬、曇り空の下、私と文靖君は予約してあった安城市更生病院へと向かいました。彼の運転で私は助手席。これが旅行なら、どんなに楽しいドライブでしよう。彼の体は検査に耐えられるだろうか、検査結果はすぐに出るのだろうか、色々考えているうちに駐車場に着きました。
  検査結果は、予想以上に大変なものでした。「至急、入院の手続きをしてください」。「年を越すまで待てないでしようか?」との質問に、ドクターは答えました、「何よりも大切な命、仕事はいつでもできます」。その「大切な命」と言う言葉が耳から離れませんでした。
 お会計が済み、帰る頃は雨、帰る車の中は「シーン」としていました。(こんなことになってどうしよう・・)(文靖君ごめんね・・)と、心の中で何度も縁り返していました。
  家に着き、雨はますますひどくなりました。でも入院準備のため、買いものに行かねばなりません。「こんな雨の中、行かなくていいよ」と、いつもの文靖君なら言うのに、この時は「私行ってくるわね」と言うと、お布団の中から「うん・・・」の一言でした。もしガンだったら、入院生活は長引くかもしれない。ガンについての本は沢山読んでいたので想像はつきました。大変つらい闘病生活が待っています。外科手術・抗ガン剤・放射線治療などが考えられます。
  パジャマを選ぶ手がふるえ、「どうする?どうする?」と、自分に問いかけてばかりいました。回りを見渡せば、従業員の人が手慣れた様子で棚を整理しています。楽しそうな家族連れ、靴下を選んでいるカツプル、小さい子の手を引いているお母さん、見慣れた光景なのに、何かが違っていました。
  明日からお店を休むため、親しい友人知人への連絡。静岡で一人暮しをしている長男の秦君への連絡。そして、長男から「僕大学はやめてもいいよ」の言葉には泣けました。「秦君、大学は続けてね」と伝えました。次男の充君と長女の衣里ちゃんは、お互いの部屋を行ったり来たり。いっぱい心配してくれたね、「ありがとう」。充君はお父さんに手紙をくれたね、「ありがとう」。
 たくさんの友達からの電話、すぐ飛んで来てくれた人。「こんなものが良く効くよ」「こんな補助食品があるよ」「大阪・四国にこんな病院があるよ」「ガンについてこんな本があるよ」などなど。たくさんの友達が、それぞれ真剣に情報を寄せてくれました。そして、色々な形で手をさしのべてくれました。
  カナダ人のアンジェラも、悲しむ私をそっと抱きしめてくれました。アンジェラも泣いていました。彼女は、いつも一緒に喜び悲しみ、そして話を聞いてくれました。
 初めての入院生活、手術 通院。二人で一緒にこれからのことなど話しました。

退院後は文靖君らしい生活となりました。何より驚いたのは、文靖君の前向きな姿です。私達家族は、どんなに勇気づけられたことでしょう。今では、彼の運転で楽しい外出もできるようになりました。
 いろんなことがあった一年半。泣いたり笑ったり、大忙しの1年半でした。入院中は、毎日のようにたくさんの友達が遠方から来てくれました。今でもたくさんのお友達が、両手いっぱい力強く支えてくれています。考えるたびに目頭が熱くなります。
 今後も文靖君には、しばらくの間静養していただき、今後の人生をゆっくり考えていってほしいと思います。今しばらくの間、ふつつかな私どもを見守りください。

 


                  
        寄 稿 文

敬愛する方々に健康についてメッセージをいただきました。                  

                 
                    上村 純子

 私が関本さん夫妻と知り合ったのはいつ頃なのか、忘れてしまいました。数年前から、お昼にうどんを食べに行ったり、色々お話したり、数時間過ごすことが多くなりました。
 文靖さんは、お店の顔、ボランティアをしている顔、音楽をしている顔、お話をしている顔と、色々な顔を持っていて、それぞれ生き生きとしていて不思議な人だといつも思っていました。
 外国の方のお世話をしていて、入れ替わり立ち替わり国の違った人達が出入りしていました。カナダ旅行に夫婦で行かれて、帰って数日してからのこと、突然「ガン」を宣告されたと聞いて、耳を疑いました。
 なぜ? うそでしょう? 私の頭の中には、今から五年前、ガンで亡くなった妹のことが浮かびました。世話好き、話し好き、何事も一生懸命と、文靖さんと、とても良く似ているからです。たった五カ月入院しただけで、私達の願いも空しく、この世を去ってしまいました。だから、文靖さんには何とか手術をして良くなって欲しいと、何度も祈っていました。手術の日も、手術後も何度か訪ねて回復を願っていました。
 嬉しいことに日に日に元気になり 私が心配しているにもかかわらず、山登り、良いお医者さんを求めてあちこち行ったり、温泉巡り、治療のために外国まで出かけていきました。私にとっては、ますます不思議な人に思えてなりません。
 とても器用な人で、術後間もないのに大丈夫かなと思ったのですが、私の家の修理をお願いしたところ、快く引き受けてもらい、とてもきれいに仕上げてもらえたこと、感謝しています。
 今も一週間に一度、目の見えない方の家に出かけて行き、帰除 修理などボランティアとして、ご夫婦でやってみえます。私はいつも感心ばかりしています。
 いつも前向きで、何事も積極的な文靖さん、これからも病気と戦いながら、いろいろ活躍されるよう祈っています。

 私も文靖さんから生きる姿勢、力をもらっているのです。今までどうり、良いお付き合いが出来たらと思っています。  

                     

                                       竹田朋文

 健康というものは、そこなわれたときに意識するのかもしれない。特に、若い時にはその傾向が強い高校二年の時に、虫垂炎で入院手術したのが大病の始まりである。今では虫垂炎の手術は簡単で、2〜3日で退院すると聞いている。当時は、抗生物質など使える状態ではなかったので、10日間くらい傷口にガーゼを入れてウミを外に出し、ウミが出なくなるとガーゼを抜いて完了というもので、今では考えられないまさしく大手術であった。
 「のどもと過ぎれば・・」その後はカゼをひくくらいで、病気のことなどあまり意識せずに20年が過ぎた。昭和47年に腰痛が始まり、初めはバレーボールの指導の疲れだと思い、晩酌にウイスキーを飲んで紛らわせていたところ、ある晩に「吐血」をしてビックリぎょうてん。緊急入院をして一カ月の入院ということになり、二度目の「健康」を強く意識するはめになった。
 十二指腸潰瘍の治療をし、貧血の改善をはかった。一年も経たないうちに下血し、入院治療。その後も再発し、ついに胃を3分の2と十二指腸を切断する大手術になってしまい、その後も膵臓が悪いということで、通院し薬をのみ続けるはめになった。
 尿検査の結果が悪いと言われれて、二年も薬を飲んだが改善されないし、自覚症状もないので医師に相談すると、「唾液の関係で検査結果が悪くなる人がいる」ということなので薬をやめたが、その後なんともなく、何のために薬をのみ続けたのかとバカバカしくなった。今でも胃の調子がよくないので、「百草丸」をのみ続けているが、病気というほどではない。
 手術以降、富士山へ4回ほど登ったが、足がケイレンして苦しんだり、登山後筋肉痛になり一週間くらい回復しなかったりということもあり、退職半年前から、4qのウオーキングと220段の石段昇降を毎朝して5年になり、ちょっとした登山をしても筋肉痛などはなくなった。そのうえ風邪熱で寝込むこともなくなって「健康」のためにも良いことが分かった。
 退職後、妻の通っていたスイミングスクールに誘われ、クロール・背泳ぎ・平泳ぎができるようになった。2年くらい前に近くにプールができて、会員として月〜木場日に泳ぐようになった。この1年くらいは、1時間20分で、2000m(プール40往復)泳ぐようになり、体重は約10s減り、体脂肪率も26〜13になり腹の出っ張りがなくなった。中性脂肪も低い値になり、そのうえガンマGTP(酒を飲み過ざると高い値)も正常になって驚いている。

 

     

私の見た関本夫妻はWondrous
                                            竹田治子

 原稿依頼をうけて、ふり返り考えてみました。関本夫妻とは、いつの頃からか、いつのまにか、大切な親しい「ご近所さん」になっていました。
 特に一昨年秋、文靖さんが病気されてからは、関本さん御家族の様子が気がかりでおつきあいも増しているように思います。
 「本日休業」。赤字で書かれた大きな立て看板が立てられたまま1年半になります。
 子供さん三人(大学生二人、高校生一人)をかかえ、現在は休業中(無職)。それなのに実に明るく、くったくなく、むしろ毎日の暮らしを楽しんでいる、そんな様子が見受けられます。
 日課にしている散歩の途中、「今日は」と明るい声で我が家に声をかけてくれたりもするのですが、まるで二人は恋人のいでたちです。
 病んで人生観が変わったといわれるのですが、今の時代、かすみを食べては生きられません。それでもそんなことは全く気にしてない風で、暮らしの達人の日々です。
 ・敵を知って対策を…、山のような本で学び、伝統的な治療を求めて、タイヘ2回も海を渡り、また名医  を訪ねて四国まで車を走らせ行動的です。そして関本流の養生法を編み出して実践、ついには癌博   士に(関本さんの友人の言)。病院の主治医まで教育してしまっているのではと思われます。
 ・そんな中でなおボランティアとして、日本滞在中の外国の若者のお世話をしたり、一人暮しの盲人の  身辺のお世話をしたり、そば作りの講師を引きうけたり・・・。
 ・更にキリスト日曜学校に通い、仏教など宗教についても学び…。
 ・近隣のお祭り巡り、温泉巡り(治療をかねて)、登山(富士山・御嶽山など)、好奇心はつきません。
 ・そればかりか自宅の補修から、倉庫の建てかえまでやってしまいました。
 ・音楽分野でも演秦ばかりか、作詞作曲から、最近三味線までつまびいていました。

 奥さんの夏江さんはそんな文靖さんに心身ともしっかり寄り添って、体にいい食事管理を受け持ち、楽しそうに行動を共にし、また文靖さんを見守っています。
 夏江さんに支えられている文靖さんがそこには見えます。夏江さんも又大きな人だなあ〜と、つくづく感心するのです。
 私達とはとても違うお二人、まねしたくてもできませんが、教えられ感心することばかりです。
 大勢の知人友人(職種も立場もさまざま)に囲まれた関本さんはWondrousな人です。
 病気も退散することでしょう。

                  H14.4.29

        

 

無常の風きたらんこと

   真宗大谷派僧侶 林 信暁

                                 1
 関本文靖さんと知り合ったのは1989年の夏でした。『乗りたいねん!電車』と言うスローガンで、バリア・フリーを目指す運動をしている車椅子の女性が私の所属寺に泊まることになり、そのサポート役の一人として正覚寺に現れたのが彼だったのです。以来、十数年、友達付き合いをさせていただいています。
 最初の出会いの三年後の秋、私は「多発性筋炎」という膠原病(こうげんびょう)の一種にかかって入院しました。国が「特定疾患(難病)」にしている、発生率が十万人に五人という大変珍しい病気とかで、私自身もそんな病気の存在を初めて知りましたし、市民病院の看護婦さんたちからは、「それは一体どんな病気なんですか?」とくり返し訊(たず)ねられる始末でした(笑)。
 膠原病は「自己免疫疾患」の一種です。簡単に言えば、本来自分の身体を守るためのシステムが調子が狂って自分の身体を損なってしまうという、なかなかに厄介な病気です。口の悪い友人からは、「自己破壊的(自爆テロ的)に生きてきたあんたの生きざまが、そのまま形になったようなビョーキやな」と冷やかされました。そういわれ、「なるほど!」 と妙に納得してしまいました(笑)。私が知らず知らず、自分の心身をいじめるようなストレスのたまるいきかたを重ねていて、命が「いいかげんにせいや!」とどついてくれたのでしょう。
 ともあれ、現在のお粗末な医学では本当の原囲は解明されていない病気なので、治療といってもステロイドなどの薬物を大量に投与して、免疫機能そのものを力ずくで抑えつけて、その自己破壊の悪循環プロセスが鎮静するのをひたすら待つという、何とも野蛮な「対症療法」しかありません。それ故に、なかなか時間のかかる治療ですし、お医者さん自体が治る治らぬは運を天にまかせるしかない、と言うのが現状のようです。

                              2
 三カ月にまたがる入院期間中、関本さんは何度かお見舞いに来て下さいました。最初の時、ギターを持参されていて歌をプレゼントしてくれようとしたものの、病室の雰囲気から遠慮されたようでした。私の入院していた部屋には末期の癌患者や、死期の迫った肝硬変の患者などもいて、少々重い空気だったのです。事実、私の入院中に、二人の方が亡くなっていかれました。
 入院が1カ月を過ぎて長引きそうな様子になってきた頃、関本さんが「主治医の前で走り回ってみせて元気なことを証明して、早く退院させてもらえばいいのに」と言って下さったことがありました。私はその時、「病院の中に居ても外に居ても私には大した違いがないから、そんな必要ないですよ。せっかく恵まれた長い休日、ゆっくり本でも読みますよ」と答えたことを覚えています。
 関本さんは、一瞬不思議そうな顔をしましたが、すぐにいつもの快活な表情に戻ってひとしきりジョークを飛ばして、私を笑わせて帰って行かれました。
 実は生まれて初めて入院を体験した私は、病院という場所がかなり気に入って(笑)いたのです。何故なら、病院の中では入院期間の長い重病人ほど大きな顔をしていて、軽症の患者や健康な人ほど小さくなっているという(笑)、その見事な"逆さまぶり″に、私は何とも言えぬ解放感を感じましたし、皆が口をそろえて「まずい」と言う病院の食事が、私にはおいしくてたまらなかったのです。よっぽど普段お粗末な食生活をしているのだ、と同情されそうですが(笑)、本当においしいのだから仕方ありません。
 検査とか手術は痛いですし、点滴も煩わしいのですが、それ以外は何の雑用もなく、一日中好きな読書ができて、三度三度おいしい食事が出て、夜はぐっすり眠りたいだけ眠れるのですから、こんな結構な所はめったにありません。ですから私の、「病院の中に居ても外に居ても大した違いがない」というのは嘘で、実は「中のほうが良い」くらいの気持ちだったのです(笑)。
 そんな調子で日々を楽しく過ごしているうちに、私の病気は鎮まったようで、ついに退院の日が来てしまいました。忙しい裟婆の暮らしの再開です。自宅静養から徐々に仕事に復帰、何年かは毎月通院し続け、薬も飲みつづけていましたが、やがて面倒臭くなって、どちらも自己判断で止めてしまいました。その後、数年間経っても何ともありませんので、結果としては治ったようです。「膠原病てのは我々医師の手の彼方で勝手に始まって、勝手に悪化したり勝手に治ったりする病気なんだよ」という医者をやっている友人の軽口を思い出します。

 

                                  3
 入院した経験のある方には分かっていただけると思うのですが、ベッドの住人としてお迎えする「お見舞客たち」は、見舞ってもらうとかえってシンドクなってしまう(笑)お客さんと、慰められてホッとするお客さんの二つのタイプに、見事に分かれてしまうのです。私には、このことが不思議でなりませんでした。

あれこれ考えてみますと、この両者の違いを分けているのは、どうやらその見舞い客自身の「病気というものに対する捉(とら)え方」にあるような気がしてくるのです。つまり、病気を「あってはならないマイナスの状態」だと捉えている見舞客は、どんなに優しい言葉を発したとしても、結局は入院患者をシンドクさせてしまいますし、「人は生きていれば時には病気もするものだ」と自然に受けとめておられる人は、特に何をいわなくとも入院患者をホツと慰めてくれるものなのです。
 こういう場面では、その人が生というもの、さらには死というものをどのようにいただいて生きているのか、ということが残酷なほどにハッキリと表れてしまうようです。
 誤解されると困るのですが、関本さんには、その半生の中で育まれた独特の世界(人間としての幅・魅力)がありますので、決して私をシンドクさせた訳ではなく、後のお見舞いは本当に嬉しかったのですが、正直なところ、「関本さんほどの人が、病気というものをやはりどこかしらマイナスの状態と見ているらしいことは何か寂しいことやな・・」という気がしたのも事実です。
 現代社会では、「若くて健康な有能な者」だけが「人間」であるという幻想が幅をきかせています。無能な者は「落ちこぼれ」と蔑(さげす)まれ、老いた者や病んだ者は「産業廃棄物」とか「社会のお荷物」とか呼ばれて排除されてしまいます。かねてから、そういう価値観に立った社会のあり方を問題にし、それに囚(とら)われた教育・学校を問題にしてきた関本さんのような人でさえも、やはり「病気よりは健康の方が本来だ」という思いからは自由ではありえないのかな…と。

                               4
 私は仏教徒です。ブッディストであるということは、「人は生まれた以上、必ず老い病み死ぬものである。死の原因は他でもない、生まれたことにある」という単純な事実(絶対の真理)を承認して、そこから生き始めることを選んだ者であるということです。どんなに若くて健康で有能な者も、いつかは必ず衰え、壊れ、消えていくのです。自分もまた、いつかは必ず「落ちこぼれ」、「産業廃棄物」として「社会のお荷物」となって死んでいくしかないものである(笑)という厳粛なる人間の実相(じっそう)に目覚めたところから生き始めるのがブッディストです。

  愚か者をつつめないで、
  それを馬鹿にするような賢さは、
  決して最高の賢さではない。
  弱い者をつつめない強さも、
  決して本当の強さではない。
  すべて限りあるものは、終局的には
  弱くて愚かな者である。
                   ――宮城 頭(しずか)の言葉

 「すべての人間は終局的には弱くて愚かな者である」ことに目覚めた人をこそ仏陀と呼びます。そして、その最高の賢さと本当の強さを憶念しながら日々を歩む者が、ブッディストです。室町時代の日本の乱世を生き抜いたブッディストの、こんな言葉が伝えられています。

・・・ことにもって、この世界のならいは、老少不定(ふじょう)にして、電光朝露(ちょうろ)のあだなる身なれば、今も無常の風きたらんことをば、知らぬ体(てい)にてすぎゆきて、後生(ごしょう)をばかつて願わず、ただ今生(こんじょう)をばいつまでも生きのびんずるようにこそ、思いはんべれ。あさましと言うもなおおろかなり。
                 (れんにょしょうにん)』 四帖目第二通

 ここで「後生を願う」と言われていることは、世間で誤解されているような「死後の生存を願い求める」というようなことではなくて、大胆に意訳すれば、「自分自身の生の根拠を問う」ことです。オギャーと生まれてチーンと死んでいく数10年間の「意味」を問うこと、「自分はどこから来てどこへ行く何者としてこの人生を生きるのか?」ということを問題にするということです。このお手紙は、そういう肝腎なことをおろそかにして、せっかく与えられた数10年の「人間としての」生涯を、徒(いたず)らに空過(くうか)することなかれ!という私たちへの呼びかけです。

                                 5
 私は若き日、仏法の師から、「人は御縁(ごえん)によって様々な相(すがた)をとりながら、その与えられた命を生きていくものなのだ。病人は、病(やまい)という御縁を得た者としてその人生の時を生きているのであって、決してその人の人生をリタイヤしている訳ではないのだ。病んだ時には病に徹して、その時を大切に生きよ!」と教えられました。
 病気という御縁によって、私たちは実に多くのものを失います。しかし、私たちは病気という御縁から、それ以上の多くのものをいただくこともできるのです。
 因みに、先に述べた見舞い客の二つのタイプの後者は、多くはその方(かた)御自身の経てきた病気の御縁によって育まれたものなのです。「そこに居るだけで病んだ人に大きな慰めを与えられる不思議な力」、それはまさに病人の功徳(くどく)として、その方に自然に恵まれたものなのです。
 人は、生まれてから死ぬまで様々な御縁の中を生きていくわけですが、その様々な御縁から何をいただけたのか、ということこそが、まさに“いのち”そのものから時々刻々問われ続けているのです。

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  2000年、開本さんは癌という病を得ました。彼のそれまでの四〇数年間の人生が、引っくり返るほどの大変な御縁だったと思います。本人はもちろんのこと、つれあいさんも、息子さんや娘さんたちも、この御縁によって多くの決断(断念)を迫られ、悩み苦しみ、それはそれは大変だったと思われます。

 しかし、どんなに大変なことであろうとも、事実は一つです。因縁(いんねん)の事実を、思いによってないことにすることは出来ません。どんな思いをも超えて巌然と到来した事実を因縁といただくしかありません。
 病気が発覚した最初の時、関本さんとそのつれあいさんが、この大変な事実に率直に向き合おうとされている姿に立ち合わせていただいた私は、関本さんとそのご家族が必ずこの困難を乗り越えていかれるだろうということを確信しました。
 「困難を乗り越える」は別に病気が治るということではありません。病気は治る因縁があれば治るし、悪化する因縁があれば悪化するだけのことです。それは因縁(事実)にまかせておくしかないことです。
「困難を乗り越える」とは、そうではなくて、「癌という御縁をいただいて(受容して)、その事実を生きる者になる」ということです。癌になった我が身の事実を受け容れるということが先ずなければ、癌という病気と正面から向き合い、それと取り組むことも出来ません。この一番肝腎なことが我々の中では案外、見落とされているのです。ガン告知の是非がいまだに問題になってしまうということに、この問題が端的に現れています。
 そして、このことさえ最初にキチンと出来れば、後は御縁の中で出来る限りの努力を尽くしていけばいいのです。癌という病気と取り組むために生活を組み替え、人間関係を整理し、本当に為すべきこととそうでないこととを識別し、不要なものや不急のことは捨てていく…等々。
 逆に言えば、こういう御縁でもなければ、自分自身の生き方の全体を省(かえり)みて、変え、改めるなどということは私たち凡夫(ぼんぷ)には不可能なのです。そのまま、うかうかと一生を空過しかねないのが私たちなのです。
 関本さんが今回の大変な御縁を、自分の生きざまの総体を問い返す「大切な契機」としていただいておられることは、最近の彼の言動から私にもよく分かります。今回それらのことを文章にしてくださるということで、私はとても楽しみにしております。そこには、癌という御縁によって、より深くより広い「新たな御自身の人生」に出会うことが出来た関本さんが息づいておられるに違いないからです。関本さんの人生は、癌によって中断されたのではなく、癌によってこそ、より真実(リアル)な地平へと深化し発展しつづけているのです。
 もしタイムマシンがあって10年前の私の病室に、今の関本さんがお見舞いに来て下さったとしたら、どうだろうか?と想像すると何やら楽しくなります。「生きることは変わることだっていうのは本当やなあ…!」と、私は驚きのつぶやきをもらすでしようか。もっとも、その病室には、そんな関本さんの素晴らしさが分からぬ10年前のお粗末な私がいて、関本さんの言葉の真意が分からずにトンチンカンな会話をくり返しているだけかも知れません(笑)。
                                               (2002年4月26日 記)

 

              

     When We Lived in Japan….(日本に住んで…)

 When we first met Fu and his family in August of 2001, Fu's cancer was in full recession and he was very excited about the improvement of his condition. We were able to see firsthand the way Fu treated his health and discuss with him the changes he had made to his life to combat his disease.

 (私たちがフーとその家族にお会いしたのは、20018月のことでした。彼のガンは後退していましたが、非常に強い治療への熱意を持っていました。私たちは、彼が病気と戦い・挑戦し治療していく様子を直接目にすることができました。)

 We found it very interesting to see that Fu treated his health not only as an issue of the physical body but also as an issue of his entire lifestylemind, body and spirit. We were very awed at the courage he had shown in rejecting "modern medicine" and the eagerness to find alternatives. 0ver the past few monthswe have seen the way that Fu takes care of his spirit as well as his body. We both feel that Fu is an amazing man who demonstrates more than just the ability of a person to overcome cancerhe also demonstrates a way to prioritorize life that we have learned a lot from.

 (私たちは、非常に興味深い事を知りました.彼は体を治そうとするだけでなく、彼は人生のすべて・心・肉体・精神をも問い直しました。現代医療に頼ることなく、熱心に多様な治療方法を探したのです。彼の勇気に、私違は恐怖の念にうたれました.数ケ月が過ぎ、彼は体と同じように心も大切なことを教えてくれています。私たちは共に感嘆しております。彼はガンに打ち勝つ能力を持っているだけでなく、たくさんのことを教え「人生で何が大切なのか」明らかにしているのです。)

 There are stories we have heard in Canada about a few people who have rejected common treatments and have overcome cancer in a spiritual and natural way. We think that these people are brave and necessary pioneers, and we wonder if we would have had the courage to take the same path had we been in similar situation. We very thankful for these people who blaze trails for others to follow.

 (カナダでも少数の人達が、癌を克服するため通常療法を拒否して、精神的・自然療法をしています。彼らは勇気ある先駆者であり、もし私たちが同じような状況に陥った場合、そのような勇気ある行動が取れるかどうか、考えてしまいます。未来のために道を開くそれらの人達に、深く感謝します。)

 Fu has a lot to teach people about health−−not just about overcoming cancer but about living a healthy, natural, and wellrounded life style. We consider it an honour to know Fu and his family. We will continue to thank God for his example and friendship to us, and will continue to pray and wait expectantly for his full recovery.

 (フーは、ガンを克服するだけでなく、豊かな人生・自然で健全な生き方を教えてくれます。彼とその家族を知ることができ、たいへんな名誉に思います。彼の友情・良きお手本を感謝しつつ、彼が全快することを、神に祈り続けます。)

Derek and Tracie Finstad

デリック and トレーシー フインスタット)

 2002423

 

 

 

 

                 

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