7  26日 ラオスに入国

 トックトック(3輪車タクシー)に乗って、タイ・ラオス友好橋に向かった。ノンカーイの町からは45qあるので、歩いては行けない。そのドライバー、僕を乗せるとガソリン・スタンドに行った。「何で?僕はスタンドに行けとは言ってないぞー」。先にお金を払ってくれと言う。渋々払うと、そのお金の分だけガソリンを入れた。お金をまったく持っていなかったんだね。
 朝9時、タイ側イミグレーション(出入国事務所)に着いた。すでに数人の外国人が来ている。パスポートを見せるだけ、あっさりとタイ側を出国した。ここから、オフィス前の有料バスに乗って、メコン川を渡る。このバスでしか国境は越えられない。ずいぶん高い橋だったけど、オオー!あっという間。
 僕にとって27番目の国だ〜!などと感傷に浸る間もなく、ラオス側のイミグレーシヨンに着いた。ここでビザを持っていない人は2通、入国申請とビザ申請を書く。10人ほどが団子のようになって書類を書いている。僕はこういうのは目茶苦茶早い。すぐ書き終わった。すると近くにいた二人組の日本人に、これで良いんですか?と聞かれた。
 彼らが書いた書類の署名欄には、ローマ字で名前が書いてあり、パスポートの署名は漢字、ちょっとまずい。同じ欄に漢字で付け足すよう教えてあげた。申請代1500バーツ(4300円ちょっと高い)を払うと、簡単にビザが発行された。走るように外に出たら、制服の女性に呼び止められた。「入国税を払ってください」。

 ひとけのないラオスの首都ビエンチャン
 ゲートの外には、たくさんの客ひき・トックトックの運転手が「さあ乗った」「乗ってくれ」と待っていた。が?どういう訳か僕にはしつこくない。どうも荷物が少ないので、タイの人と思われたのかも知れない。ここからビエンチャンまで25qほどあるので、歩いてはいけない。
 近くにいたタイ人に「いっしょに行かない?」と誘って、二人でミニ・バスをチャーターしてビエンチャンに向かった。彼は大きなカメラを持った、自称カメラマン。髪が長くて、すごく多い。何やら怪しい。
 彼がタイ語で、「中心街の噴水まで行ってくれ」と頼んだ。何回も話してようやく分かったらしい。タイ語とラオス語が似ていると言っても、地名は似ている発音が多いので間違いやすい。道がすごく悪い。凸凹で砂ぼこりがモウモウと舞い上がる。思わず二人とも、シャツの襟で口を覆った。
 ミニ・バスは、多い時は8人ぐらい乗る。トラックの荷台に長椅子を付け、改造したバスだ。乗り心地は最低、排ガスがもろ荷台に入ってくる。振動で何度も天井に頭をぶつけそうになった。30分ほど揺られると、ミニバスは人気のない通りに止まった。
 「ええ!ここが中心なの?」、「たぶんここだと思う」。カメラマンも初めてのラオス、自信がない。それにしても道路も細い。「まあいいでしょう、それではまた会いましょう」と別れた。
 さてさて、場所を間違えられたかな?。自分の位置をコンパスで確認しながら、ホテルを探す。静かな首都とガイドブックに書いてあったけど、この町本当に国の首都なの?車もビルも少ない。道路も舗装してない所が多く、埃っぽい。何か変だな〜、と思ったら、商店街が無い。デパートなんかもちろん無い。ある意味ですごい国だ。
 ホテルはどこ?市の中心は、やはり小さな噴水があるだけだった。しかも回りは泥道で整備もしていない。まー、それで十分なのだけど。

 そこから300m、1軒目のホテルを見つけた。小さな看板があるだけ。しかし4階。疲れるし、建物が何となく味気ない。人の気配がしないので止め、次を探すことにした。2軒目、不思議と満員、部屋ナシ。1階のレストランに中年の白人ばっか集まっている、何の目的で彼らは来ているのか?昼間から入り浸っている様子だった。3軒目、大通りから少し入る、レセプションの人も木造2階の建物も感じ良し。値段もシングル・トイレ・シャワー共同で800円くらい。今夜は、『タービー・ゲストハウス』に決定。
 僕の部屋は2階の突き当たり、ドアの前に小さなテラスがある。白いカーテンはきれいだった。荷物をベットに置くと、テラスの先客に挨拶しようと部屋を出た。

空からの贈りもの、マヌーとの出会い
「ハロー」とその背の高いヒョロッとした若者に声をかけると 「ハロー」。「メイ・アイ・シート(座ってもいい?)」、「ワイ・ノット(どうぞ)」。肘掛け椅子に座った彼はゆっくりと眼鏡を外し、読んでいた本を置いた。
 僕は長椅子に腰をかけ、今タイから入国したことを話した。彼は1日前にバスで、24時間かかってベトナムから入って来た。すごいバス、悪路、すごく疲れたので今日は休養日だそう。旅行休みで休養と言うのは変な話だけど、旅は疲れるので休養日は絶対必要なのだ。
 彼はフランス人、名前はマヌーと言った、正式にはエマヌェル。「それって女性に使う名前でしょう」、「そう、だけど女性の名前は最後にLEが付き、男性は付かない」。「なるほど」、変な想像したけど、それは言わなかった。僕だけなのだろうか、Hな映画を想像したのは。彼は、紳士でまじめな人だった。
 「お腹が空いた、食事に行かない?」、「ワイ、ノット(いいじやん)」。この時、これから彼と2週間も行動を共にするなんて、想像もしなかった。常に僕の体調を気遺ってくれ、サポートしてくれた。テムと同様、空からの贈りもののような人だった。

 マヌーとビエンチャンで一番、ラオスで一番のマーケット『クラート・サオ』に出かけた。ほとんどの市場には食堂があるし、何でもあるしとても安い。
 予想通り、市場は人でごったがえしていた。電化製品・服・生地・時計・金銀宝飾・雑貨。東側のテント張りのマーケットは野菜・肉・鶏、味の素にお菓子、藁で縛った豚肉の干したのとか、乾燥させたよく分からない食べ物。
 そのわけの分からない食べ物がおもしろくて、マヌーとたずねた。聞いても分からない場合、二人で1つ買えば味見ができるので、二人もなかなか良い。ぶらぶらしていて気がついた、この国はまだ『いちば経済』なのだ。
 後で調べてみた、因にビエンチャンの人口は50万人、ラオス全体では500万人、人口のほとんどは農業で、経済的にはタイ経済圏に入っている。だからタイのバーツがどこでも使える。ではタイはというと、人口は6千万人、バンコックは1千万の大都市、ざっと10倍だ。
 地図で見ていると、同じような国が南北に並んでいるのに、実際はまったく違う。道路も少なく、バスが走っている道は数えるほどだ。だから少し遠くは飛行機。その飛行機も中国製などの小型プロペラ機、しかも何10年も前のを使っているから命がけ。飛んだり飛ばなかったり、いざとなったら歩いて行く覚悟がいりそうだ。
 しかもラオスは山国、山賊も出る。日本の外務省の「注意喚起」も、あながちオーバーでもなさそうだ。危険度1。ビエンチャンから少し田舎に入れば、宿も病院も少ない自給自足の生活。したがって、旅行者は決まったルートを通るしかなさそうだ。

 

 チベット仏教徒、マヌー
露店でおいしそうな食事がなく、マーケットの真ん中で野菜炒めとライスを食べた。「何で僕と同じもの食べるの?」、マヌーに質問した。「僕は菜食主義なんだ、」、「え!!どうして、僕は1年前ガンになって、乳製品と動物の肉はいっさい止めたの」。彼は長い頭を傾けながら聞いていた。彼が菜食になったのは、変わった理由があった。彼は、数年前インドに旅行した。その旅の途中、不思議な会話を聞いたそうだ。その言葉は、昔聞いたような懐かしい響き、魂が震えるような感覚になって彼を引きつけたのだった。それは、チベット人との初めての出会いだった。
 それからチベットの本を読んだりするうち、自分が生まれる前『前世』はチベット人であったと信じるようになり、すっかりチベット仏教徒になってしまったのだった。
 「ン!!、おもしろい。そういう体験って、『デジャブ』って言うんでしょう」、「そう」。彼は酒もタバコも吸わない、肉も食べない。本当だった。どこから見ても僕より立派な仏教徒らしく、また穏やかだった。
 人は新たに宗教を変えたり、人生が変わったりする時は、何か強いきっかけとなるようなことがいる。例えば癌になったり、失恋したりとか大きな挫折とか。しかし、彼はまったくなかった。少年時代も普通の典型的なフランスの家族で育ち、学校のクラスの子がほとんどそうであるように、無宗教だったそうだ。
 何のきっかけもなく、チベット仏教徒になっていった。そこがおもしろい。今欧米のインテリの間では、何か悩みがあると仏教徒に改宗したりするのが流行っているらしいけど、それもおもしろい。一種の仏教に対する偏見だな〜。

 彼は数年前から1年に一度、半年とか3カ月アジアを旅していた。「それで、マヌーはアジアを旅行して仏跡を訪ね、自分のルーツ捜しをしてるんだね。言ってみれば巡礼だ」。彼は僕にそう言われ、改めて自分の行動に気がついたようだった。
 数日後マヌーと話しをしていて、マヌーが夕食をあまり食べないので、「どっか体の調子が悪いの?12食しか食べないチベット人みたいだね〜」と言うと、「そうだ、チベット人は2食だ。思い出した、大学の時も2食しか食べなかった。別に特別理由があった訳ではないのにね」。彼はほとんど表情を変えずに、のんびりと答えた。
 髪を見ると、頭はきれいに刈り上げられ、1pほどしか髪はなかった。まるで僧侶だ。そして、彼の頭はフランスパンのように長かった。
 「僕は、どこの国が自分の住処か分からないので、あちこちフラフラしてきたんだけどね。でも今回の旅行は別、癌の治療と、未知の抗癌薬を捜しに来たの」。彼に僕の1年の間に起きたこと、大腸の進行癌で手術、肝臓に転移したことなどを話した。彼は黙って聞いていた。そしてポツリと言った、「大丈夫、きっと助かる」。

 

 癌進行の絶えざる不安
確かに、今の僕はメチャクチャ元気だった。ギターを持ってリュックを背負って15qも歩けばぐっすり眠れる、ぐっすり眠れば余分なことも考えない。朝はすっきり起きれる。元々癌は自分自身の細胞なので、ほとんどの場合、よっぽど進行しないと自覚はない。快適だ。
 しかし、時々手術したあたりが突っ張るように痛くなる。するとまたまた再発か?肝臓の腫瘍が大きくなったか?不安になる。また、筋肉が痛いと、「アー、リンパが腫れて来たんじゃないのかなー?(リンパに転移)。お腹が痛いと、腹膜に再発かなー?腰が痛いと骨転移かー?」と恐くなるのだった。この辺が普通の病気をした人と違う。
 そして、ビエンチャンに来て、痰が出だした。「まずい、肺が弱っている。肺にガンが転移したかもしれない」。「しかし痰に血は混じってない、黄色だ。だけど、もし転移があってもそんなに早く症状が出るはずがない」。そんな風に時々思い出す。不安だった。でも彼と話しているうちに、少し気が軽くなった。今はとりあえず幸せなのだ。

 食事を済ませて、市場を出ると道路端でサトウキビの筒のようなものを売っていた。おばさんにフランス語と英語と日本語で聞いた。笑ってばかりで返事が分からない。ラオス語のガイドブック持ってるんだけどね、結局ラオス語で答えられても何も分からない。
 こんな時はジェスチャーになるけど、食べものはジェスチャーでは答えられない。したがって買って食べる。筒に入っていたのは蒸した米、赤紫色のしっかりした粒だった。と!、何と、日本で古代米として売られている赤米だった。もち米のような食感、少し砂糖が入っているような甘さ。これはおいしい。
この甘さはお米を発酵させた糖分。たぶん砂糖は使ってない、甘酒の甘さだ。タイもラオスもお米発酵文化圏(そんなのがあるとしたら)。しかもこのお米は水田ではなく、山の斜面の焼き畑で作られているのだと思う。日本の古代でも行なわれていた、焼畑農業の米のルーツなのだった。そう思うと、なお美味しいのであった。

 『B29』という名前のレストラン
 食事の後はコーヒーでも飲むか、と、市内中心部に向かって散歩。お寺を見ながら歩く、しかし何故か、ほとんどの寺の本堂は閉まっている。閉鎖的?
 建物は原色の赤や黄色で縁取られ、屋根の端はおもいっきり船のへ先のように反り上がっている。マヌーにはこれが自然なのだろうけど、僕にはどうも日本のどっしりしたお寺が懐かしい。少し開いた窓からは金色の大きな仏像が、厚くて重たい入り口ドアの方を見ていた。
 狭い路地を歩いていて、『B29』という名前のレストラン見つけた。マヌーが「どうしてこういう名前付けるのかなー」。カンボジアでは『ポルポト』と言うレストランがあったそうだ。爆撃や虐殺の忌まわしい記憶を商売の名前にしてしまう。ヨーロッパ人には理解できない。アジア人はたくましいのか、無神経なのか。
 二人で話しながら歩いていると、あっと言う間にビエンチャンの中心街を回ってしまった。かわいい猫のいるお店でバナナ・ジュースを飲んだ。おいしい。
 ごちそう様と言って、猫を抱きかかえて外に出ようとしたら猫はじっとしていた。なかなか良い子。名前は『みー』と言ってたぞ。本当かいな、お家の猫と同じ名前だ。とりあえず帰って、昼寝をすることにした。
 夕食もマヌーと一緒に出かけた。今度はフランス・パンのサンドイッチが良い。さすが元フランスの植民地、あちこちフランスパンや、ケーキみたいなのを売っている。メイン・ストリートのスタンドであれこれ注文。チーズ・バターなしで食べた。まずまずの味。炭で焼いてくれるのが良い。
 時間があるので夜のビエンチャンを散策。ネオンがほとんどなくて、開いている店も少ない。ここは首都なのに〜。いかがわしい店も見当たらない。開いていると言えば、外国人相手のレストランぐらい。と、インターネット・カフェ。今やインターネット・カフェはどこにでもある。僕はしない。使用料金は安いよ、どうしてしないの、といつも聞かれる。

 マヌーに「フランス植民地の面影は?」、と聞くと、古い建て物を指して「あれがそう」、と汚れて壁が落ちそうになった家を見上げた。あまりない、と彼は言っていた。
ショゥ・ウィンドゥに、フランスのパンやクロワッサンが並べられたカフェに入った。マヌーはいくつかそんなパンを選んで食べた。おいしい!、しかもとても安いと満足。僕はバターが使ってあるので食べない。コーヒーを飲んだ。といっても、いつも半分以下しか飲まないけど。
 人も少ない車も少ない、何となくのんびり。歩くスピードもゆっくり、ホテルに帰ってゆっくり休んだ。ただし、夜になっても暑いのだった。

27 日
 朝起きると、鼻水が出た。昨夜扇風機を一番弱くしていたのに、寒かったらしい。これからは少し暑くても、扇風機は使わないことにしよう。
 背伸びをしながらポーチに出ると、マヌーも眠気眼で部屋から出てきた。「よく眠れた?」「もちろん、グッド!」、二人とも元気。今日はバスの時刻を調べに行くことにした。北の山岳地帯に向かうのだ。安全などの情報も不確かなので、行って聞くしかないのだ。マヌーも北に向かうので一緒に行くと言う。では、ということで、30分後に出かけようと身仕度を整えに部屋に帰った。

 緑が多く、川と森林に囲まれたビエンチャン。しかし、日中陽が射すととても暑い。バンコックより暑い。ここ数日、毎日快晴。雲ひとつない。心も晴れ晴れ、雨季も終わったようだ。まずは朝食、できればクーラー付きの食堂で朝食はどう?マヌー「ワイ・ノット(良いじやない)」と答える。
 東バスターミナルは、昨日の市場すぐ近くにある。そちらに向かった。市場の中の食堂街で、やっぱり二人とも同じ食事。今度は野菜のヌードル。おおー・鼻水が止まらない。少しノドが痛い。マヌーが心配して、気遣ってくれる。ひどくならなければいいのだけど。
 食材市場を通ってターミナルに行く。亀や鰻、昆虫、カブトムシまで手足を取って売っていた。手足があると逃げるんだな〜。ガイドブックにはネズミも売ってると載っていたけど、ここには売ってなかった。
 市場の通りの向こうがバスターミナル。埃だらけの向こうにバスがいっぱい見える。あまりきれいでないバスに混じって、きれいなバスが何台かある。よく見ると、横に小さなブルーの看板を付けている。英語で「このバスは日本による援助です」と書いてある。あまりに貧しく、バスや交通手段がないラオスに、日本が無償援助したものだった。それは他のバスより格段にきれいだった。マヌーが言った、「パスポート見せて『日本人です、乗せて』と言えば、ただで乗せてくれるよ」。「グッド・アイデア、今度言ってみる」。

  二人で銀行やろうか?
 バス事務所に行くと、人でごった返していた。ルアン・パバーン行きのバスは明日はないと言う。週末なのでか?仕方がないので町から少し離れた、タラート・レーン・バスターミナルに確認しに行くことにした。
 今までタイの通貨を使っていたけどタイの硬貨は流通していないので、何でも最小貨幣の20バーツになってしまう。高くなるので、市場でラオスのキープに両替した。
 ラオスの通貨は硬貨がない、軽くて良いと思いきや、5000円札1枚両替したら、厚さ1センチ弱の札束になって返ってきた。33万キープ、厚くてクリップで留めてある。ちょっと待って!両替しすぎたと思ったら、マヌーも50ドル両替した。財布には入らない、ズボンの後ポケットにねじ込む。マヌーと二人で「おー!リッチ・マンズ。二人で銀行やろうか」。しかしこのキープ、アッという間に4日間でなくなったのでした。
 今度は、西のタラート・レーン・バスターミナルにぶらぶら歩いていくことにした。暑いので急ぐと倒れる。途中「バトッーサイ」に上った。15円の入場料。『バトッーサイ』はビエンチャンのシンボル的建物で、あのパリの「凱旋門」を模して建てられたという。フランスの置きみやげかと思ったら、違った。内戦で戦死した兵士を慰めるために、1960年頃から建設が始まったらしい。まだ完成はしていないそうだけど、こんなもんで終わりでしょう。

 

 本家より少し小さいと言っても、最上階に上がると、ビエンチャン市がグルッと見渡せる。北の山がきれいだ。南は?と見ると。ん・・・どこかで見た顔が。自称カメラマンだった。「やあ!また会ったね」「元気?」、ここでも元気そうだった。
 近づくと、彼の傍にいた二人の女性がさっと引いた。「彼女達、どうしたの?」と聞くと、「1日、数百円で二人だよ」。なるほど、怪しいはずだ。それが目的だったのか。人の動きや考えにはすべて訳がある。
 日本人はタイに行って女性を買い、タイの人はカンボジアとかラオスに行って女性を買う。で、ラオスの人はもっと山に行く。タイには、そういった目的のヨーロッパの男性も多い。ん・・・ここで僕のコメント?書けない。
 彼女達は若く、足はスラツとしてきれいだった。それがどうした。どうだ!、僕も頭がスラッとしているマヌーと一緒だ。

 

 ニセ日本人
 タラート・レーン・バスターミナルに着いた。バスは明日朝、ここから出ると言う。安全な様子。悪路でお腹が痛くならないよう、半日で行けるバンビエンまで行くことにした。ベンチに座ってミネラル・ウォーターを飲んでいると、変な日本人を発見した。
 顔は日焼けした紛れもない日本人。しかし服装が変。服は何枚も重ね着している様子、ズボンや靴は登山用。リュックも大きく登山の感じ。腰から大きなビニール袋をさげ、お腹の辺りが何かで大きく膨らんでいた。マヌーは声を潜め、「ほら日本人がいるぞー」。僕は首を傾けた。
 彼は僕らと目が合うと、こちらにやってきて英語で話しかけてきた。「僕は日本人です」。初めから自分が日本人ですと言う人も珍しい。では、と、日本語で「どこから来たんですか?」と聞くと、なぜか英語でニコニコして「北の○○の方から来て、○○に行く」と言う。
 僕は直感した、マヌーに「彼は絶対日本人じゃない」と言った。英語で話してるので当然彼にも分かる。彼はそれを無視して話し続けた。「私は京都に住んでいます。地理を教えている高校の教師です」、これはおもしろい。「ええ?ウソでしょう。日本人で日本語の話せない人に会ったことがない」と言うと、彼は話し続けた。「以前はアメリカに住んでいて、貿易センタービルの事件の時アメリカにいてびっくりした」。彼は、とにかくよくしゃべった。私の格言、『言葉の多い人は、ほかの何かを言っている』。
 「え・・?地理の教師なら知っているね、日本の一番北の島はなんて言う?」。彼は少し考えて答えた、「えぞ」。「じゃー、南の島は?」、「讃岐」。彼はそう英語で答えた。この辺で僕は笑いが止まらなくなった。マヌーに「この人は僕らの先祖。百年前の人だ」と言ってまた笑った。よく勉強したというか、してないというべきなのか。その発音がおもしろい、べたべたの日本語の英語なのだ。
 そこで彼に言った「あなたはネパール人でしょう」。僕には少し確信があった。でも彼は何とも答えなかった。マヌーはニコリともせず、僕らの話を聞いていた。偽の日本人がいるとは聞いていたけど、まさか現実に会うとは思わなかった。

 

 

 

8 ビエンチャン癌情報

 バス・ターミナルから帰って昼寝をした。夕方、メコンを見ながらジュースでも飲もうと、マヌーを誘った。夕方とはいっても、まだ暑い。「屋根のある露天がいいねー」と、川沿いを歩いていると、チュウに会った。
 「おお!なつかしい」「昼にビエンチャンに来たの」、二人で抱き合った。チュウは、同じゲスト・ハウスの日本人カップルと一緒だった。買いものをして帰って食事をするところだった。お互いの友人を紹介、しばらく話して別れた。またどこかで会える気がした。

 

 変な日本人商社マン
しばらく歩くと、日傘の付いたテーブルがあったので座った。何を飲もうか、ジュースでいつも悩む。トマトジュースを頼んだ。マヌーが隣のテーブルの方を向いて目配せをする、「日本人だろー?」。確かにそうだった。でも彼らもまた、少し変だった。観光客には見えないし、ビジネスでもなさそう。昼間から、日本の焼酎を梅酒とミックスして飲んでいた。
 今度は僕から声をかけた。「日本からお酒持ってきたのですか?」。彼らは本当に驚いて、「え・・!日本人ですか?」。「そうですけど」と言っても、もう2回日本人かどうか聞いてきた。「どう見ても日本人に見えませんねー」。やれやれ今度は、僕が疑われる番となった。日本で一人出歩いていても、外国人に間違われることよくあるけど、フランス人と居たら尚更だった。
一人は現地の観光会社に勤めている人。もう一人の彼は言った「やーー、私はですねー。商社に勤めてまして、もうすぐリストラで首になるんですよ。それで、気に入ってるこの町でやけ酒を飲んでいるのです」。なるほど、観光客とビジネスマンの中間と言うことだった。「僕は今ですね、そこの彼女に、女房が3年前癌でなくなったので寂しい。僕と結婚しないか、と話していたんですよ」。
 今度は僕が驚いた「え!癌ですか?僕もそうなんです、奥様はどこの癌だったんですか?」。「え!本当ですか?ごめんなさい、今のは冗談だったんです」。な〜んだ、と思いつつ、僕の今回の旅の目的を話した。
 「それは大変申し訳ないことをしました。でも、ずいぶん立派ですね。私だったら、とてもそんなふうにできませんよ。旅行なんてできません。たぶん蒲団かぶって何もしないでしょうね」、「そうでしょ?」と、マヌーに話しかけた。しばらくして、「それでしたら、私が協力できることがあるかも知れませんよ」と、真顔で意外な話を始めた。
 彼は商社マン。商社と言うのは、お金になりそうなものは何でも取り扱う。ラオスは貧しいながら、日本からの輸出はそこそこできる。しかし、ラオスから輸入するものが何かあるかというと、特別なものは何もない。そこで、現地の人々が使っている薬草くらいと目を付け、いくつか日本に持ち出したそうだ。すると、現地の人が使っていたキノコが、癌に効くとデータが出たらしいのだ。
 現在、そのデータは、帝京大学にあるという話だった。その後、そのキノコを23s国外に持ち出そうとしたら、ラオス政府に没収されてしまったそうだ。

 癌の特効薬?
 現在、癌の特効薬の開発競争は凄まじく、製薬会社の開発どころか、国家戦略にまでヒート・アップしている。研究者達は民間人に化け、アマゾンの奥地や、アフリカ・ニューギニア、そしてラオスにも植物の種や菌類を求めて入っているそうだ。それを知ったラオス政府が、持ち出し禁止措置を取ったのだという。つまり彼が持ち出そうと思ったものは、世界中の癌研究機関が研究しているものの一つで、かなり有望ではないかという話だった。
 また、彼は「他にも薬草類がいろいろあるんです、試したらどうですか。日本の知り合いに持っていったことがあるんですけど、土だかゴミみたいで汚くて飲まないんですよね〜」。
 確かに、今まで市場で不思議な薬をたくさん見た、けれども何だか判らん。そしてそれはすごく、汚く見えた。飲む気になれなかった。逆に、きれいで何ににでも効くという薬や、商売熱心な人は少し信用できない。薬草や漢方薬は、石油から作った製薬より安全とはいっても、使い方によっては大変危険。言葉の問題もあって勘違いもある。簡単に飲んで試すわけにはいかないので、買うことはしなかったのだ。
 「ぜひ彼に電話してください、信用できる人です。私の名前を言えば、絶対協力してくれるはずです」と、彼は力を込めて言った。そして、薬に詳しいラオス人の電話番号を教えてくれた。彼の名は『クワントン』と言った。
ずいぶん不思議なこともあるものだ。たまたま通りかかって声をかけたら、探していた人を紹介してもらえるなんて。何かのお導きですね!、これは。感激だー!お礼を言ってお別れをした、「また会いましょう」。

 タートルアンの『満月の祭り』
 マヌーに細かな話しは訳せなかったので、さっきの話をしながらタートルアンに出かけた。タートルアンはラオスのシンボルとも言われ、ビェンチャンの中心から3qほど北東にある有名な仏塔だ。その歴史は古く、紀元前3世紀、クメール様式と言われる。でも、まー、『金ピカの塔』ということで、別に行く気はなかった。だけどマヌーに、『満月の祭り』があると聞いて行くことにした。おもしろそうじゃん。
 祭りはすでに、何日も前から始まっているということだったけど、今日は土曜日で最も人出があるらしい。マヌーがトックトックを止めて値段を交渉、乗り込んだ。
 トックトックは10分程して、細い路地で止まった。え〜?こんな所じゃないでしょう。どうやら交通規制で、お寺の近くに行けないらしい。「どうやって行けばいいのかな〜?」と、薄暗くなった辺りを見ると、たくさんの人が暗闇の中を歩いて行く。後をついていった。
 しばらく行くとライト・アップされた金ピカに光る塔が見えた。高さ45m、大きい、まぶしい、単純にすごい。周囲数百mほどの広場の入り口では、ボディー・チェックが行なわれていた。ものすごい人だ、動けない。
 中に入ると、もっとすごい人がいた。広場の回りは、100あまりの企業や店のブースが作られ、それぞれがライト・アップ。別々の巨大な音量で音楽が流されていた。広場の西側には数百の屋台が出ている。うるさい、すごい人混みだ。まともに歩けない。
 しかし塔を囲む仏像が納められた外壁の回りは、もっと人がいた。本当にオー!驚いた。これはすごい!今まで、いろんなデモやインドの人の集まる場所に行ったけど、こんな人出は見たことがない。3万人?否、56万人ぐらいいそうだ。
 ようやく塔の前にたどりついて、お参りを済ますと、マヌーと顔を見合わせた。「疲れた!、帰ろう」。また、交通規制でしばらく歩かされてトックトックを拾った。夕食はまだ食べてなかった。「昨日はフランス式。今日は日本食にしない?」「OK」。日本食はどこでも高いし、わざわざ外国で食べるのもと思っていた。けれど、昨夜それほど高くない店を見つけたので、行ってみることにした。毎日野菜炒めか、野菜のチャーハンではそろそろ飽きてきた。
 ドアを開けて入っていくと、「いらっしやいませ」、と声がした。中にはお客さんはいなかった。日本人の人が営業していた。おとなしそうな30代の人。日本食でも油を使ったり、肉類が多くて困った。相談すると、肉なしでカレーができると言う。二人とも結局、カレーにした。ま〜、日本のカレーはインドの味ではなく、日本の味みたいなもんだからね。
 まずまずの味だった。マスターに「ビエンチャンはどうですか?」と聞くと、「住みやすいですよ」と答えてくれた。マヌーはインターネットをしたいと言うので、ネットカフェによってホテルに帰った。

28日 バンビエンまで
 朝早く起きた。5時半。マヌーは時間通りにちゃんと起きる。部屋をノックすると、1秒もしない内に顔を出す「よく眠れた?」。「シュワー!(もちろん)」。マヌーとは相性ぴったし。だんだんとお互い相手の感覚・感性が分かって、気を使わなくなってきた。
 あたりはまだ少し暗い。外に人通りはない。ホテルを静かにチェック・アウト。ホテルの従業員は、フロントで蚊帳を吊ってゴロゴロと寝ていた。この辺が良い、アジアだな〜と思う。
 トックトックを拾ってバス停まで行く。バスの発車1時間前、すでに大勢の人がいた。回りには屋台も店開き、果物やパン・お菓子などを売っている。僕らも朝食と、昼ご飯用のフランスパンと水を買った。大きいのは食べられないと思って、小さいのを買ったらバスに乗ってすぐ食べちゃった。
 僕らの乗るバスの横で、お客のペットなのか、イタチに水を飲ませてる。そしてバスの荷物入れに突っ込んだ。いよいよバスはバンビエンに出発、ワクワク!こういうのが免疫を高める、のかな?
 今後は携帯も通じない。ラオスには元々コインがないので、自販機も公衆電話もコンビニもない。道路は自販機がなくて奇麗なもんだ、缶が落ちてない。ではどうやって電話するかというと、ホテルか個人の家で貸してもらうことになる。でも最近は公衆電話がお目見えしたとか、カードでかけるそうだ。だけど見かけなかった。
 バスは郊外のゲートを通ると、ガソリンスタンドに寄った。230分もすると車窓は田園風景から山岳風景に変わり、緑の濃い山々が続く。窓からは冷たい風が入ってくる。窓を閉めようと思っても、窓は閉まらない。マヌーは座席の前の足を置く位置が狭くて窮屈そう。

『ラオスの桂林』、ベトナム戦争の爪痕が・・モン族の悲劇
 
窓に頭をゴツンゴツンしながらウトウトしてると、マヌーが「着いた」と肩を揺すった。「ええ!もう着いたの?」。舗装されてはいても凸凹道の180キロ、約4時間・60円の旅の終点に着いた。寝惚けまなこであたりを見回すと、回りはグルッと険しい山で囲まれていた。
 なるほど、ここが『ラオスの桂林』か、風景は一変していた。バスを降りると道路の反対側に、砂ぼこりのたつ広場が広がっていた。広場に見えたのは米軍の飛行場跡、北部山岳地帯の攻撃基地だった。近くにはアメリカ軍の傭兵として使われたモン族の村があるそうだ。
 かつてこの村には大勢の人がいた、しかし内戦が終わると村は寂れてしまって、今は観光の村だ。こんな所にもベトナム戦争の爪痕が・・。
 ベトナム戦争はベトナムだけではなく、あちこち爆撃したのだ。ケネディーが暗殺される2年前、ラオスに特殊部隊400人を派遣したことから拡大したのだ。アメリカはイギリスやフランスにならって、モン族(中国語では蔑称でメオ族と言うらしい)を徹底的に教育、共産軍との最前線に送り込んだ。結果、アメリカ軍の戦死者6万に対し、彼らの死者は20万人とも言われる。

 75年にプノンペン、サイゴンと陥落すると、利用され置き去りにされた彼らは行き場を失い、ある者は処刑、ジャングルに逃げ、ある者はタイ、アメリカに移住。山岳民族の彼らは泳ぎを知らない。メコン川にモン族の死体が累々と流れていったそうだ。
 アメリカは、長い間ラオスヘの介入を否定し続け、10万のモン族はアメリカ社会にあっても長い間差別を受けた。米政府は、96年以降ようやく彼らの存在を認め始めた。彼ら民族の悲痛な叫びが、そこここにこだましているのだ。
 かつては大量の物資で埋まったこの基地に人影はない。建物もなく、今はまったく使われていない。この飛行場を突っ切っていくと、バンビエンの村だった。

 数百人の村は静かで、小さなホテルが数軒。時折り犬が吠える。ホテルはどこも同じようなもの。ウロウロして、気さくな若夫婦の経営する、2階建ての小さなホテルに落ち着いた。ヤモリ2匹付きで400円。ヤモリは蚊を食べてくれる。今夜は蚊取り線香はいらない。ただ夜になると、時々思い出したように『ギー、ギー』鳴くのが気になる。
 部屋を見て玄関に戻ると、マヌーはポーチでフランス人と話していた。彼は長いことフランス語を話さなかったので、言いたいこともたまったのだろう。なごんで話すも、ニコリとはしない。同国人どうしで話すと、その国の内的文化がうかがえる。後で聞くと同じ町の人で、同じビルで働いていたこともあったそうだった。な〜んとも地球は狭いと思いつつ、ここはフランスの植民地だったものね。こちらからフランスに移住したり、そのまま住んでいる人もいる。日本より関係は深い。

 チョット昼寝して、遅い昼食に出かけようとマヌーの部屋に行くと、いなかった。それではと、村の唯一の市場に行くと、マヌーが食堂で手を振った。「やっぱりここだー」「休んでいるようなので、一人で来た」。
 彼は野菜ラーメンを食へていた。「僕もこれを」と言って指をさす。彼は麺好きで、13食麺でも良いそうだ。ならばぜひ、僕の打ったそばも食べてもらいたい、と日本に来ることを薦めた。

 洞窟めぐり
ここは観光といっても自然があるだけ。川下りと、洞窟巡り。洞窟と聞いて、洞窟好きの僕が行かないわけにはまいりません。さっそく自転車を借りて、一番大きそうな洞窟に出かけることにした。
レンタル自転車屋さんには、通勤用自転車のみでマウンテン・バイクがなかった。ホテルのレンタル自転車を借りることにした。ボロボロだ、ハンドルは曲がっているは、サドルは動かない。
 お金を取るのに何で直しておかないんだろー、と思いながらなんとか直して出発した。ところが、18段あるのに2段しか切り替わらない。サドルにスプリングがなくて、振動がお尻にビンビンとひびく。マヌーが借りたのも似たようなもんだ。まーこんな物?これで70円!

洞窟は川の向こう側にあるのに、橋を渡ろうと探してもない。どうしようと思って、人が歩ける程度の小路を下りていくと、竹で作った桟橋がかかっていた。足場は45本の竹のみ、片手で細い竹に掴まりながら渡る。そこを、自転車を引いて向こう側から来る人とすれ違う。川幅100m、恐いよ〜。

 

 

  何故か、川の真中に小屋がある。魚でも釣ってるのかと思って、通り過ぎようとしたら、中からヌーッと手が出た。おばさんが手を出してお金を請求したのだ。え!お金払うの?、30円。帰りも通らなくてはならないので60円。高い?ラオスではたいてい2重価格、観光客は高く、現地の人は安い。こういうの嫌いだ〜。洞窟まで4qほど、途中でもう1カ所有料の橋があったけど、今度は川を歩いて渡った。ジャブジャブ。よかった、深くなかった。

 道は赤茶色、両側には豊かな水田。西は緑の山、東には大きな岩が垂直に切り立っている。時折、トラクターの乗り合いバスのようなものが通る。ポツポツと農家があって、鶏が鳴いている。トンボも飛んで、のどかだ〜! 桃源郷があるとしたら、こんな所かな〜?と、のんびり自転車をこいでいると、子供たちが走って来た。子供達は元気だ。そして、手を出して言った「ペン、ペン」。何か変だ、お金をねだっているらしかった。桃源郷も現実はこうなっている。マヌーと二人で、彼らにバイバイして通り過ぎた。

 しばらくしてマヌーが来なくなった。どうしたの?と、戻るとペダルが外れていた。フランスは自転車大国、ツール・ド・フランスがある。マヌーも自転車が好き、木の枝でなんとか直した。なかなかの余裕。自転車の鍵がないことに気がついた僕に「僕は鍵はいらない、ペダルを外して持って行くからね」。そして、バッグにペダルをしまうしぐさをした。これには笑った。洞窟に着いた時、本当に外したから、また笑った。
 洞窟は切り立った山の中腹にあった。ゼーゼー言って大きな岩を踏み越えて行くと、ぽっかりと口を開けていた。これはデカイ洞窟だ、と勇んで懐中電灯を用意、真っ暗闇に入っていった。日本の洞窟は足場が作ってあったり、照明があっておもしろくない。ここは何も手が加えられてない。足元もドロドロだ。しばらく上がったり下りたりして進むと、大きなドームがあった。
 なかなかすごい、高さも奥行きも約2030m。山が一部壊れたように光が差し込み、中央部の鐘乳石を照らしていた。あちこちで水がしたたり、ヌルヌルした岩が奇妙な造形を作っていた。そして、その真中には仏像が置いてあった。

 人間はどこでも同じようなことを考える。洞窟はそこでおしまい、引き返すしかない。ようやく暗闇になれた目で、岩に手をつきながら引き返した。帰りに奇麗な恰好したヨーロピアンのアベックに聞かれた、「大丈夫?行けますか?」。「汚れますよ、電灯がないとチョット危険ですね」。彼らも一緒に引き返した。
 山の麓まで下りると、池があって10人ほどのヨーロピアンたちが泳いでいた。彼らはここで何時間も遊んでいるんだろ〜な〜。都会から離れて、何も使わないで遊ぶ。こういうのって、日本人にはできない。マヌーといると、そういう感性に近づく。何とはなく過ごす。リラックスは最高の治療だった。
 僕らは、いつのまにかもう一人のフランス人が加わって3人になっていた。ドロドロの道にはまると、タイヤが動かない。必死になって避けてたら、溝にはまってしまった。みんなで笑った。こういうのも結構楽しい。
 途中の有料の橋は、人がいなくてただで通れた、営業時間は終了らしい。さっきは「私たちは貧しいのでお金をください」と言っていたけど、その割りにはあくせくしてない。
 ホテルに帰ってシャワー、着替えをして夕食に出かけた。この村にはレストランは5軒ほどある。メニューを見に全部まわっても5分ほどなのでグルッとしたら、おもしろいことを見つけた。あるレストランは、フランス語圏の観光客が集まっていた。別の店は北米、また違った店はアジアの人と、店ごとに客の雰囲気がまるっきり違うのだ。一番うるさく外まで歓声が聞こえ盛り上がっていたのは、アメリカ人がいたレストラン。おかしい、今まで見かけなかったのに、集まると雰囲気が変わるのかな。とてもうるさくて、自分たちの世界に入っているようで、僕も入ってはいけない。
 タイに来てから、アフガン攻撃に対してどう思うか、会う人毎に意見を聞いてきた。タイの人もそうだけど、他の外国人も全員「アメリカが悪い」と、言っていた。ブッシュが何と言おうと国際世論は旗色が悪いし、アメリカ人はテロに狙われやすいので緊張してるのかな。それで仲間が集まると、つい大声になったような気がした。こんな山の中なのに、夜遅くまでロック音楽が聞こえた。

 さて、僕らはどのレストランにしようかと看板を見ると、『とーふ』、と書いてある。誰も客はいない。ベジタリアンの店だ、決定。だけど入って注文すると、トーフは売り切れでなかった。仕方がない、またまた野菜炒めとライスとジュースになってしまった。
 あっそうだ、日本人の集まっているレストランはなかった。だけど僕らの泊まったホテルには、日本人のプリクラとメッセージが書いてあった。僕も書いた、電話番号も。でも、未だにどなたからもメッセージはない。
 マヌーは、明日はラフティング(川下り)をしようとしきりに誘った。「ごめん、水着は持ってないし、お腹が冷えるから駄目」、「水着はいらない、川も暖かいから。フー!(僕の名)絶対行こう」。
 ラフティングと言っても、タイヤに乗って川を下るだけ。オリンピックの水泳を見ても、欧米人のほうが水遊びが好きなのだった。日本人は伝統的に、大人が水に入ることは少ない。その代わりに風呂だ。カナダ人の友人は、日本での集中豪雨の時、1日中腰まで水に漬かって、大はしゃぎをしていた。泥水だよ。

「ごめん、明日朝発つことにするので、今回はパスだ」。マヌーはここで23日、のんびり過ごすそうだ。彼ともこれでお別れか、少し寂しい。また会えるといいな〜、と思いつつベッドに入った。

29 

朝二人で朝食に行く。昨日食べた市場の同じ店。同じ物を食べる。今日はご主人がいない、どうしたのと聞くと、「ご主人は学校の先生で、今日は学校に行っている」とのことだった。学校は半日で、給料が少ないので店もする。どっちが本業なのか分からない。
 近くの布生地を売っている女性が、トウモロコシをくれたりして、しきりに僕らの気を引こうとしていた。気がつくと今日もこっちを見ている。「マヌー、若くて奇麗じゃん。彼女とここに残って住めば良いじゃん」、「フー、君が残れ」。「何でだ〜。彼女とってもかわいいじゃん」。
ラオスの女性は昔の日本の女性のようだ。着てる物は質素だけど、清楚で穏やか、それでいて芯が強そう。マヌーは独身、31歳仏教徒、ちょうど良い気がしたんだけど。でも彼女、ただ民族衣装を売りたかっただけかもね。

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