4  20日 バンコック徘徊

 朝8時に起きてタワシ・マッサージをして、薬を飲む。朝の散歩にと、バンランプー市場に行った。そこで朝食をとって、動物園や官庁の集まるドゥシット地区に行った。塀に囲まれた大きなビルに、車が多い広い道路。人があまりいず、つまらない。急いでホテルに帰った。暑い、汗かいた、シャワーだ。

 午後は、またまた『徐富弘診療所』に行く。待つこともなく、先日と同じ人にマッサージしてもらった。タイのマッサージはどこでも指名できる。人によって少し違う。しかも、ここではカルテがあって、どの人がしても治療の経過が分かるようになっている。旅行者には名刺が診察券代わりに渡され、それを持っていくと次回から初診料はかからない。僕もカルテがほしい。
 僕に渡された名刺を見ると、タイ語で何か書いてある。読めないのでテムに読んでもらうと、僕の名前と『台湾からの旅行者』と書いてあるそうだった。何で?そういえば最初に来た時、言葉が通じないので、隣りで治療を受けていたおばさんに英語で通訳してもらった。あのおばさん、台湾の人だったんだ。親しく話していたので間違えられたらしい。
 治療が始まった、またまた痛い。来なきゃ良かったと真剣に思う。だけど、後はすっきり。ぬるま湯をゴクゴク飲んで深々おじぎ、感謝して外に出た。何だか治った気がする、不思議だ。

 帰りは南の道路に出て、バスでシーロム通りに行った。バンコックの南に位置するニューロード、シーロム地区は、バンコックのビジネスの中心街。高いオフィスビルやその回りは高級ホテル・レストラン、日本人ビジネスマンも多い。それを目当てにかカラオケ屋、スナック・バー、高級レストラン、何だかよく分からない夜の商売がいっぱいある。
 有名なのは、日本人向けのセーラー服の店とかなんとか。タニア通りとかパッポン通りは、日本人ビジネスマンは1度は行くそうで、日本語の看板がいっぱい。タイの人にとって不思議な町だそうだ。
 以前来た時、1本の細い道路に入ったら、いっぱいオカマの人がいて、思わずバックしたことがあった。その時は、ここに泊まろうとしたけど値段が高く、安い宿はあまりのひどさにやめた。「トラブルも多いので注意」と、ガイドブックにあるけど、僕にはたいして興味がないのだった。

ここより北西、カオサンの方に向かっていくと、チャイナ・タウンがある、そこの方がおもしろい。シーロムは日中人通りも少ないので、チャオプラヤー川に沿って夕涼みに行った。川沿いの細い通りには一般の商店が閉店し、待ってましたとばかりに露店が店開きし始めていた。タイの商店街は1日に3回〜4回チェンジする所がある。朝は朝市、昼は一般商店、夜は食べ物の露店。
 だから、何度行ってもおもしろい。しかもそんな露店が、チャイナ・タウンを中心に5qも6qも続いている。そして、交差点の角ごとに左右に細いマーケットが伸びている。衣料品の商店街、果物・食べ物・電気街・機械屋。僕は、このバンコックの市場街が世界で一番大きいと思う。
 今は何も欲しいものはなし、買いたいものはない。ぶらぶらと一軒一軒のぞいて歩く。あっと言う間にチャイナ・タウンの中心。
 近くに、泥棒マーケットがある、行ってみたい。でも疲れてきた、次回にしよう。慣れてくるとボートが早くて快適だ。エキスプレス・ボートでカオサンの近くまでボートで行き、ホテルに帰った。
 薬を飲んでシャワーを浴びて休息。夕食は何にしようかな?と考えながら少し寝た。
 タイに来て、どうも食事が困った。みんな油っぽいし、肉類が多い。食べたのはパン、野菜炒めとライスとか野菜のチャーハン。たまに油で揚げた魚・お粥。そこで、今日は健康で美味しいもの探すぞ!、と意気込んでカオサンの通りに出た。
 ウロウロと小1時間探すけど、結局、シーフードの露店に行き着いた。野菜炒めとライスにトムヤンクン。おいしそう! お腹も空いてしっかり食べた。でもやっぱ、トムヤンクンは辛かった。

 

 話し相手がほしい!
 ホテルに帰って、カウンターでコーヒーを注文した。今日はほとんど人と話をしてないので、誰かと話したかった。同じ旅行者に話しかけた。ド〜モ、笑顔が返ってこない。ド〜モ話が続かない。ここのホテルの客もフロントも愛想が悪い。愛想がいいのは掃除の叔母さんと猫だけ。それで充分? 土地柄かな? 人擦れしている? 長い期間旅行していても、いつも簡単に友達ができる訳ではない。何時間も同じバスの隣りの席に座っても、滅多に親しくはならない。
 次はこのホテルは使うのを止めようと決めた。テレビもあるのだけど見ない。今日は少し早く寝ることにした。温度調整が難しいクーラーに悩みながら、結局切ってベッドに入った。切ると暑い、入れると寒い、暑いほうが自然で健康。そして、今日も僕の体がちゃんと動いてくれて感謝。心配してくれているみんなに感謝。神様やブッダに感謝。宇宙に感謝!でした。

5  21日 イサーンへの旅

 朝、5時半に起きた。薬を飲んで、急いで荷物を持って階段を下りる。フロントはまだ暗くて、探すと係りがボーとしている。すでにリュックを担いだ外国人が二人いた。
 朝早く、人気のないホテルをチェックアウトするのは、何となく寂しい。いつも、何か大事なものを忘れているような気がする。ほとんどの場合、2度と来ることのない、永遠の別れなのだ。そんな気持ちを抱いて、空港行のバス停に向かった。

  今日から3日間、テムの会社の同僚と、タイ東北部に旅行に連れてってもらえることになったのだ。会社の使っているミニバスにたまたま席が空いていて、同乗させてくれることになった。目的地は、東北タイ、聖地巡礼の旅。タイの人は熱心な仏教徒が多く、各地のお寺参りが盛んだ。信仰は病を治す。「お参りすれば癌も治る」とテムに言われ、これは絶対行かねばならぬ、と思ったのでした。今回はテムの同僚にタイでは珍しいキリスト教徒の人が一人いて、キリスト教の殉教の地も行くそうだ。
 タイの人にとっても、東北タイは特別な所。82年まで共産ゲリラが支配していて、めったに行くことができなかった。そこにはいろいろな仏跡や聖地、観光地があり、テムにとっても初めての旅行なのだそうです。

 タイ東北部巡礼、祈りの旅
 巡礼と言えば、日本でも四国巡礼がある。古くからの信仰治療の地として人が集まる。フランスにも巡礼街道があるし、聖地『ルルド』は、どんな病気も治ると言われ、世界中から人々が集まる。イスラムのメッカ巡礼は、一生に1度の願い。英語にはフェイス・ケアー・ヒーリング(信仰治療)と言う言葉があっておもしろい。祈ると言うことは、『内なる声に耳を傾け、天からの指示を仰ぐ』、立派な免疫賦活治療なのだ。
 僕の母方の家系は、元々非常に信仰に熱心で、祖母はいろんな神様や何かを集めては毎日の祈りを欠かさなかった(毎日小さな茶碗に2030コご飯をあげてた)。そして、何かあるとみんなが占ってもらって、結構当たった。そして93歳まで立派に生きた。だけど僕は、長いこと無神論で、夏江さんが神棚に手を合わせてるのを見て、「御利益があるなら、今頃はしっかり金持ちだな〜」などと横目で見ていただけだった。
 しかし、病気になって1年、今ではすっかり祈るのが好きになってしまった。なぜか?今までは、何か『力のある他人』にお願いしていた。感謝するというのも、何か『力のある為政者』に媚びるようで我慢できなかった。だから、賽銭を多くすればとか、何度もお願いすれば何とかなるとか、取り引きや仕事のような感覚になってしまった。
 そういうのって、何も変わることがなく、心も落ち着かない。今は仏像でも建物でもなく、『内なる神、天なる何か』に語りかける。心が落ち着く、何か満たされるようだ。神様も仏様、何にでも祈る。
 節操無くて怒られるかな〜。具体的には何もお願いはしない、心で何かを見渡し、感謝する。

 ワインとグレープ・ジュースがすごく美味しかった!
 また話がそれてしまった。テム達と空港の駅で7時に待ち合わせ。しかし携帯電話に「少し遅くなります」と。30分ほど待つと、5人が乗ったミニバスが到着した。
 みなニコニコと自己紹介。僕はタイ語は話せないので残念。テムに全部通訳してもらう、今度来る時はタイ語を話すぞー!テムより皆少し年上、いろんな部署で働いているらしい。中年の男ばっかり。夏江さんも安心だ。
 テムのお母さんがアユタヤ近くの親戚に行くので、同乗してきた。テムのお母さんは、やさしくて知的でチャーミング。テムが何であんなに親切なのか理解できた気がした。
 ミニバスはバンコックを出ると、一路2号線を北に向かった。僕は助手席を譲ってもらって、快適。景色がバッチリ見える。空も真っ青。Good! Nice!

 道路の両側には田園(水田)が広がり、所々に果物や赤や黄色の凧を売っている。水田も1区画が日本より大きい。ポツリ・ポツリと小屋や農家らしきものが見えるけど、働いてる農夫はあまりいない。見渡す限りの豊かな農村風景だ。
 信号で止まると物売りが、手に果物や民芸品など持って売りに来る。僕らは、ビニールに入った昆虫の佃煮を買った。そう、昆虫。タイは今、昆虫がヒット、街角でバッタや大きな幼虫、○○虫の黒くこんがり揚げたのを売っている。元々タイの地方の人が都会に来て食習慣を持ち込んだそうだ。当然、私は食べた、が!あまりおいしくなかった。日本の佃煮のように甘辛だったらもっと美味しいのに。でも実際、僕の舌は辛い物や、人工の調味料で変になっていたのでよく分からなかった。

 ミニバスは、信号がほとんどない道を時速100キロ以上で飛ばす。とても快適。この2号線はタイの大動脈、片側23車線それに側道と歩道、とても立派だ。タイはアスファルト舗装ではなく、コンクリート舗装が多い。実はこの道路、ベトナム戦争の頃アメリカ軍が補給用に建設したそうだ。へ〜!戦争するってことは、知らない所でこんなにも大規模な施設や道路を作るのか。兵隊が行くだけでは戦争にならないんだね。
 日本がカンボジアに初の自衛隊派兵、PKOで道路作った理由が分かった。あれは軍事協力だったのだ。簡易舗装では暑くて雨の強いカンボジアではもたない、とりあえずの軍事訓練だったのでは? 最近次々海外に自衛隊の派兵が決まり、ますます恐い。政治家も市民も戦艦や戦闘機・兵隊が行かなければ、とりあえず戦争に巻き込まれないと思っているかも知れないけど、だいぶ違うようだ。ん・・・、すでに日本は派兵をしている。

 車は快調。走れ走れ!620q北のノーンカイ。行けども行けどもまっ平ら。タイは日本の国土の1.4倍あるけど、山は国境周辺のみで高い山は無い。
 道端のドライブインで朝と昼に食事を取った。テムが菜食のオーダーしてくれるので、すごく楽。昼はシメジだけの野菜炒めとスープとライスだった。テムも知らなかったそうだ、この辺では「シメジの野菜炒め」と言うと、それだけ出てくるんだって。
 車は途中でハンドルを切った。トロトロと地道を少し行くと、ぶどう園があった。観光葡萄園で『ぶどう狩り』でもするのかと思ったら、おみやげを売ってるだけだった。
 バンコックから400qも来ると、小さな丘のような山が見えてくる。昼夜の寒暖の差があるこの地方では、美味しい葡萄が出来るのだそうだ。ワインとグレープ・ジュースを買った。これがすごく美味しかった。

 メコン川には本当に龍がいる!
 車は道路端にある掘っ立て小屋に止まって、シチリン(火をおこすコンロ)を買った。200300円だった。またしばらく行って今度は大きなモールに入った。驚いた、タイのこんな田舎に、数百台も車が止まれるショッピング・センターがあるとは。食材にサンダル・衣料、レストラン、何でもあり、日本やアメリカのモールと変わらない。
 つまりこの辺の人達は車を持って、食べる物を自分で作らずに、結構所得が高いということ。テムに聞くと「タイのどこに行っても、こういうショッピング・センターはあるよ」だって。さすが東南アジアの経済大国。ここでバーベキュウの材料・肉やビールを買った。今夜は1軒コテージを借りて宴会をするらしい。僕は野菜とフランスパン。テムが「この果物、日本人の口にあうと思うよ」と言って、青ピーマンみたいな果物を買ってくれた。後で食べたら、少し甘くてジューシー、ふかふかのピーマンみたいだった。

 4時過ぎ、ミニバスはようやくノーンカイ市に到着した。1軒のホテルに行ったけど、煮炊きができないので止め。次、近くの船着き場(イミグレーション・オフィスがある)に行った。ここからタイの人は日帰りでラオスに行くこともできる。事務所の横の『見晴らし台』に行くと、ドクドクと流れるメコン川が見渡せた。大きな川だ、そして流れが速い。
 茶色に濁った川幅200300mの流れは、まさに龍のように波打っている。そこを小さな渡し船が行き交い、物や近隣の人々が行き来している。タイとラオスの『運び屋』のおばちゃん・おじちゃん達の貿易窓口だ。
 現在タイからラオスに行くには、メコン川沿いに5カ所、空路では2カ所ある。貿易は年々盛んになっているようなのだけど、いたってのんびり。流れを見ていると、千年も変らんかったんじゃないだろうか〜、と思えてくる。

 ここには本当に龍がいる。体長10数メートル、銀色の鱗を持つその魚は神として崇められている。ベトナム戦争当時、米軍が捕え、10数人の軍人が大きな魚を持っている写真が市場にあった。その姿は海に棲む、「竜宮の使い」という魚に似ていた。これ本当よ!すご〜く長い。
 みなで近くの市場を散策した。市場はラオスから輸入した雑貨や、ラオスを通ってきた中国の電化製品が所狭く並んでいる。中には今話題のウサマ・ビン・ラディン氏のシャツも売ってた。もっとも、ウサマ・ビン・ラディン氏のシャツはどこでも売っていたけど。今人気なのだった。
 国境の町と言っても、緊張感もそれらしい警備の警官もいない至ってのんびり。中にはラオスから来ている人もいるのだろうけど、顔つきや言葉では判断できない。
 何軒か薬草を売っている店があった。買いたかったけれど、荷物になるので止めた。マリファナ類も売っているらしい。この町には後日、一人来るので情報収集のみ。市場は小さくて、あっという間に散策終わり。泊まる所を探して、メコン川沿いに更に北上した。
 あたりはすでに薄暗く、所々の明かりが旅情をそそる。屋根のないマーケットに、明かりに誘われるように人々が集まっていた。炭を買った。足に何かの虫が刺した、ジィーっと痛みが走った。痛みはしばらく続いたけど、やがて忘れた。

 男だけの宴会はいつのまにか終わった!
 20qほど行って、田舎町の郊外、バーベキュウのできるコテージにようやく到着した。公園のような広い所で、大きな池があり、数棟の娯楽施設や10数棟のコテージが並んで立っていた。2棟借りた、きれいな所だった。テムと僕が1棟を使うことになり荷物を移動。ようやく落ち着いた。
 屋根のある駐車場の一角で、さっそく調理が始まった。みな料理が得意だ。上半身裸になって、さっさとコンロに炭をおこし、肉や魚を料理していく。1時間ほどすると、豪華な料理が何品か並んだ。テムが「どうしてこんなにおいしんですか?」。みなが笑ってた。
 テムはあまり手伝わなかったのだ。「男の人が家庭でも料理するの?」と聞くと、あまりしないとのこと。「戸外でバーベキューをよくするの?」、あまりしないらしい。ん・・、タイの人はのんびりしていると聞いていたけど、手際が良かった。

 真暗な空の下、何故か玄関先で、誰言うともなく宴会が始まった。皆がさあ食べろ、と勧めてくれる。だけどほとんど肉料理、残念、食べられない。でもスープは美味しかった。スープも辛いのと辛くないの2種類。僕は一人、パンに生野菜をはさんだサンドイッチを食べた。満足。
 ビールも入ってきたので、僕はギターを持ち出してきた。今まで忙しかったので、ギターを出すことがなかったけど、久しぶりに歌った。ビールを飲んでも日本人のように、フラフラになるまで飲まない。
 テムが歌った。あのまじめなテムが。日本の歌「花」はタイでもヒットしたらしく、タイ語で皆知っていた。「〜心のなーかに、心のなーかに、花をさかそうよ〜」。皆で歌って、男だけの宴会はいつのまにか終わった。外は本当〜に静かだった。

22 日
 7時過ぎに起きてタワシ・マッサージ、薬を飲む。荷造りをして仲間のコテージに行くと、テムと僕以外は、すでに荷物を車に積んでいた。ん・・・、朝御飯はどうするんだろ〜?
 テムは支度が一番遅かった。僕は池をぐるりと何周かして体操・ストレッチ。さて出発、行き先は東北タイ・巡礼のツアーだ。車はノロ・ノロ進み出した。
 20分ほど南に戻ると、『タイ・ラオス友好橋』のたもとに到着。近くの簡易食堂でそれぞれ朝御飯、僕はコーヒーだけ飲んだ。テムは、僕のラオス行きを心配して情報を集めて来てくれた。ラオスは、タイ人にとっても『秘境の地』。国境周辺に住む人以外あまり行くことがないので、よく知らないらしい。テムはラオスの治安や、食べ物、道路が悪い事を心配してくれていた。

 「みな、観光客が橋を渡っているから大丈夫でしょうね」。外国人観光客は、この『タイ・ラオス友好橋』を渡ってラオスに行く。反対側の道路には、トックトックが数人の欧米人を連れてやってきていた。そしてタイの国境事務所に消えていった。OK!大丈夫。数日後、僕も行くぞー、と決めた。
 ミニバスは最初のお寺、ノーンカイの 『ワット・シー・クン・ムアン』にお参り。大きな本堂。タイ式の普通のお寺、屋根がとんがっていて、キラキラ装飾がしてある。青銅製の胴体、金の頭部、穏やかな顔をしてらっしゃる。「病気が直りますように」、「旅が安全でありますように」。
 次は、少し南に下がって、ウドーン・ターニーの『バーン・チアン』に行った。ここは先史時代の遺跡が保存・展示されている所。国立公園となっている。1966年発見され、当時は東南アジア最古、5000年〜7000年前の物と推定され、大発見と騒がれた。しかし、最近の研究では、紀元前3600〜紀元200年頃のものと推定されているらしい。墳墓の発掘現場は建物で保存されており、頭蓋骨や骨が散乱して誰でも見ることができる。たぶんここはレプリカで、近くの博物館で本物が見られる。共に有料。
 外国人とタイの人では入場料が違うけど、僕はタイの人の安い値段で入った。これは違法。しかし、職員の人が博物館のパンフレットを渡してくれたのを見ると、僕のだけ英語だった。どうして分かったのだろう?あんなにタイ人らしくしていたのに。
 車は南東方向にメコン川を下るように、細い道路を進んで行く。途中道路の両側に、不思議な木が数qに渡って続いている。高さ67メートルの木が鳥の形や、少女のダンスの格好、キリンや象に作ってある。テムに聞いた、「どうして、誰が作っているの?」「たぶん地元の人が作っているんでしょう」。通る人に楽しんでもらうため? 見事な緑の造形だった。

 『輪廻転生』
 いくつかの小さな町を通って、サコン・ナコーンの近くのお寺に着いた。ここは普通のお寺ではない、タイで最も尊敬されたお坊さんを祀ってあるお寺。というか記念館でもある。
 本堂に入ると、正面に真っ黒な等身大の座禅を組んだ仏像があり、両側には生前使っていた衣や写真、質素な生活道具が展示してある。玄関の左にはおみやげ屋さんもある。そこで大きな花とお線香を買ってお供えした。どうもこのお坊さんは、タイの人々にとって特別な人らしい。テムによると、「ここで祈れば病気が治って、もう一度来られる」と、全国から信者が集まるらしい。
 「どうしてこのお坊さん立派で偉いの?」「何年もジャングルの中で修業して、人々に仏教を伝え導いたから」だそうです。でもそれだけではないそうです。
 仏像の手前、いっぱいお花で飾られた祭壇の中心に、20pほどのガラスケースがある。その中には、10粒ほどの水晶のようなものが飾られています。大きさは1pぐらい。それが不思議、何とそのお坊さん火葬すると、骨が水晶になったそうなのです。
 『輪廻転生』、この世に生命を持つものは、生まれ変わり死に変わり、永遠に迷いの世界を巡る。『冥府魔道』の子連れ狼。尾上一刀「ちゃん!、腹へった」と、子供に言わせない。ひたすら我慢だ! おっとー、スッてしまった。
 『輪廻転生』を信じるタイの人々にとって、この水晶は、この輪廻を終え天上界に上って、『仏』になった証なのです。そう言われてみるとそんな気もする。何となくありがたい。

 夕方、食材を買いに、サコン・ナコーン市の市場による。テムは、「今は関本さんにとってとっても良い時ですね」「なんで?」「ちょうど今は仏教徒の「菜食の週」で、一年に一度肉食をしないのです。あの黄色い3角の旗が菜食の店のサインです」。見ると小さな旗がチラホラ、バンコックでも見た。
 「あの『』の字が書いてあるけど、どういう意味でしょうね〜?」「たぶん、物事がかたづき奇麗にする、というような意味じゃないかな〜」と答えた。日本に帰って調べると「ものいみ=祭官の別棟にこもり、飲食行動を慎むこと。つつしむ。離れた部屋。仏語の正午以後食べないこと。午前中や僧の食事、法事の食事、菜食の事」とあった。ピッたし。

 キンキラの『ワット・ブラタート・パノム』寺院
 ミニバスはまたちょっと走って、タート・パノムの『ワット・ブラタート・パノム』寺院に到着した。ここはメコン川の川沿いの町。毎年2月の1週間をかけたお祭りには、大勢の人が訪れるそうだ。メコン川の向こうはすぐラオスなので、ラオスの仏教徒も大勢訪れる。この寺院は高くて、白い仏塔が非常に有名。どこからでも見える、美しい。4050mはある。白と茶色、一部は金で装飾されているそうだ。ところがこの塔、1975年激しい雨に突然崩壊したそうだ。
 ドォドォドーッ、さぞ凄かったのだろう、その辺が興味をそそられる。今あるのは再建された物、塔内には仏舎利が納められているそうだ。塔の下を裸足で、雨に濡れた大理石の床をぐるぐる回る。上を見上げる、また倒れて来ないんだろうか? 大勢の人がお参りに来ている。しかし、タイのこの辺まで来ると、外人観光客はほとんど来ない。ホテルは無い、ゲストハウスのみ。

 テムが「関本さん、これお土産にどうですか?」と、手を差し出した。手の上にはビニールに入った木の葉、木の葉の上には1pほどの金箔が張ってあった。タイの仏教は金が好きだ。と言うより世界中の人が好きと言った方がいいのか。とにかくお寺はキンキラだ。キンキラに少し辟易していたので止めた。
 オシッコをしにお寺の外に出ると、川沿いにズラーと露店市場が続いていた。おもしろそー! でも皆が先を急ぐので、いつかまた来よう、車に乗って次へと進んだ。
 あたりはすでに暗かった。車が細いメコン川沿いの道路を右におれると、きれいな西洋風の建物の前で止まった。キリスト教の教会だった。ここは殉教の地。
 付属の建物にノックすると、高齢のシスターが出てきた。何やらタイ語で話している、分からない。今日は偶然何かのお祭りがあったらしく、大勢の人やテントがいくつかあった。今日は遅いので、また明日来ることにして、今日の寝床を求めてまた出発した。長〜い、とにかく長〜い1日だ、まだ終わらない。とにかく疲れた!
 今夜は、ドライバーさんの奥さんの実家に泊めてくれることになっている。僕はこの近くの村だと思ったら、とんでもない間違いだった。1時間、車は真っ暗闇の中をスッ飛ばす。2時間、まだ着かない。雨も降ってきた、時々台風のように激しく降る。時々白い犬が道路を横切る。運転席を覗くと、時速100q前後で走っている。片側1車線の狭い道、カーブになると車は傾いて、大きく曲がって行く。
 自動販売機も、コンビニもない。対向車もほとんどなく、車のヘッドライトに真暗な林が無気味だ。ここに銃を担いだ兵隊が現れてもおかしくはない気がする。車の中は、おしゃべりも1通り終わって(しゃべり疲れて)、仏経のテープがかかっている。お経ではなくて、有名なお坊さんの説教集のテープだ。
 そのテープも何本か聞き終わって、ようやく町らしき所のスタンドに止まった。車のガソリンがなくなったのだ。雨がしとしと降る中、全員でおしっこ。
 僕「まだ着かないんですか?」「来たことないので、道を間違えた。確認したので、あと1時間ぐらいで着くと思います」。やはりなかなか着かないのだった。11時過ぎ、ようやく迷子のミニバスは、雨降る小さな村に着いた。少し寒い。

 貧しい東北部タイの農村は?
 車を村の中心、狭い交差点に止めると、サンダルをピチャピチャしながら路地を入った。彼の奥さんの実家には、数人の人が待っていてくれた。おばあさんは、バンコックの子供の所に旅行中で居ない。代わりに妹さんが、食事の用意やら世話をしてくれていた。そして村の人達が数人。この村では誰か来るとみなで歓迎するそうで、村長さんみたいな人も来ていた。
 僕は疲れた、食事をして早く寝たい。こんな遅くに、歓迎会のようなのが始まった。しかし自己紹介もなく自由。テムの同僚の何人かは料理、シャワー、みな好きずき。
 まあ、なるようにしかならん。腰を降ろしあたりを見回した。この家には玄関がない、窓が無い、床が無い。とはいってもそれは日本人の感覚。日本人として言えば、コンクリート・ブロックでできた、20坪程の大きなガレージのような家だ。入り口は車が入れそうなくらい広く、開け放たれている。明かりはブロックの穴から。床は入り口から段差がなく土間、コンクリートだと思う。雨でヌルヌルする。

 

 明かりは蛍光灯がひとつ。部屋の仕切りはほとんど無く、暗いけど見渡せる。トイレとシャワーのみ、板戸があった。翌朝、村を散歩したけど、平均的な家のようだった。
 僕は干した焼き魚をかじりながら、いったい誰なのか分からない人にいろいろ質問した。実際、テムもよく知らないらしい。「イサーン地方というと、すぐ『貧しいタイの東北部』とイメージしてしまうけど、全然貧しそうでないですね。お米は採れるし、農地は広い」。
 みな口々に、「そりゃー、テレビや何かの話だがね、食べるにゃー困らん」。「そんならどうして、みんなバンコックに出稼ぎに行くんですか?」。「そらーあんた、お金がなかったら、あんたが持っているカメラも買えんだに」。「でも十分豊かじゃん? 若い女の子が歓楽街で働くこともなかろ〜に?」。「学校も行かせてやりたいし、いろいろあるで、・・」。

 タイの人達の方が、仕事や性の偏見がなさそうだ。問題は日本の農村の問題と大差ない、ただタイの方が家庭はしっかりしている。それだけ支えあう必要性があるのかも知れないけど、うらやましい気がする。
 全身湿気っぽかった。汚れた感じがした。だけど、足だけ洗ってマットレスの上で寝た。みんなでざこ寝。少し寒かった。ずいぶん疲れた、こんなの癌に良いんだろうか。こういう機会を与えてくれてみんなに感謝、元気でここまで来れて。感謝して眠りに着いた。

                                      

23  病気をして、今まで見えなかったものに気づいた!
 朝は、大きな牛の声と鳥の声で目覚めた。昨晩は気がつかなかったけど、家の前と横は牛小屋だった。この辺は家が高床式で、下が牛や家畜小屋になっている家が多い。雨も止んで、暑くも寒くもない。まったくのどかだ。この『のどかさ』は若者にとって、苦痛でもある。
 村を歩くと、所々立派な家がある。娘が、バンコックから送金したお金で家を建てたりするのだと言う。テムが最初「関本さんがこの村に来た最初の外国人でしょう」と言っていたけど、村の人によると、そういった歓楽街で働く娘達が、外国人のボーイ・フレンドを連れて『祭り』にやってくることもあるそうだった。

 村を歩いて気づいた。家が少ない割りには小さなお店が、あちこちにある。でも、売っている物はどこでも同じ。コーラにポテトチップにラーメン。
 経済や流通の進歩は、親にとって迷惑だ。お母さんが子育てに苦労してる様子が分かる。「おかあさん、これ買って。あれ買って」。世界中どこでも現金がいるのだ。
 雨も上がり、水滴が緑の葉の上でキラキラ光っている。鶏達も子育てに忙しい。「いろいろお世話になりました」とみんなにお礼を言って、ミニバスは泥だらけの道をヨタタと昨日来た道を戻るべく出発した。

 彼女達は見えもしない神を信じ、命懸けで信仰を守った!
『アウアー・レディー・オブ・マータース・オブ・タイランド・シャイン』(殉教少女達のタイ大聖堂)が正式の名前だった。昨日来た教会に、また戻ってきた。
 四角い体育館ほどのガラス張りの立派な建て物は、メコン川沿いの公園のような所に建てられていた。正面には大きなホール、その奥にはガラスの棺に入った7人の少女が眠っていた。
 一瞬、本物か、と思ったけど、人形のようだった。それぞれ花で美しく飾られた少女達は、半世紀前と変わらぬ美しさで眠っていた。6人全員でお祈りした。

 

 キリスト教徒の殉教の歴史は、日本と似ている。約1世紀前ヨーロッパの侵略・支配はタイに迫っていた。タイの南・西からはイギリスが、東からはフランスが、次々軍隊を送り植民地化してきた。ベトナム・カンボジア・ラオスと支配してきたフランスに脅威を感じていたタイは、キリスト教を禁止し、弾圧。信仰の改宗を迫られた7人の少女達は、これを拒否し死を選んだのだった。
 国民の94%が仏教徒といわれるタイにあって、まったくの少数派のこうした歴史は、知られているのだろうか。わずか23%の信者が、これほど大きくて立派な大聖堂を建てた。彼らが如何に熱心なのか、伺い知ることができる。
 裏手に回って、メコン川を見に行った。流れは昔と変わらないのだろうか。ここの流れもまっ茶色だった。教会の前の少し離れた広場では、若者たちが音楽を演奏していた。それを横目で見ながら少し歩くと、墓地があった。そこにもたくさんの花が飾られ、一目で殉教少女達の墓地と分かった。そこで裸足になって一人一人にお参りした。
 彼女達は見えもしない神を信じ、命を懸けて信仰を守った。僕にはまったく考えられなかった。たぶん今のほとんどの日本人には理解できないでしょう。

 

物やお金から生まれる喜びよりも尊いものがある!
 僕は長い間考えてきた、物やお金に捕われる生き方はくだらない、心の豊かな暮らしをしようと。しかし、1年前、死ぬかと思った時、自分の居なくなった家を想像した。僕が居なければ要らなくなる物がたくさん。スピーカーや楽器・楽譜や本、いろんな物いっぱい持っていることに気がついた。何で増えちゃったの?結局みんな捨てるじゃん。
 よくよく考えると、病気前、楽しかった時は、物を買った時が多い。家を建てた時、中古車を買った時、仕事がうまくいってた時、テレビ・ビデオ・ステレオと。僕は安物しか買わないけど、それでもずいぶん買った。反対に物が介在しなかった喜びってどれだけあっただろうか。家族や友達との語らい、子供の誕生(その時は大変なことの方が多かった気がする)、旅行(お金が要るな〜)となかなか難しい。結局、物やお金から生まれる喜び?
 だげど、病気をして、今まで見えなかった物に気づいた。友達や仲間、尊敬する人達がとっても優しかった。僕が思ってたよりず〜っと、驚かされる毎日だった。嬉しかった、楽しかった、涙も出た。そして、何もなくても楽しかった。心が何かを変えていく、見えない何かがある。見えないものにもパワーがあることを実感した。
 今までは心の問題や宗教を、『知識や物の世界』を通して見ていたのだ、しかしその内側から見ると、すべてが変わって見える。生きる喜びを感じる、すごい力のある世界。殉教した彼女達のことが、少しは理解できる気がした。

 ムクダーハーン国立公園
 車はメコン川沿を北に少し走って、タイ式のドライブインに入った。川沿いに小屋を掛け、メコンが一望できる展望レストランだった。そこでメコンのナマズ料理と野菜炒めを食べた。テムはメコン川を見ながら、フランスがタイに突きつけた不平等条約について熱心に話した。
 第2次世界大戦以前にラオスを占領したフランスは、タイとの国境線を決めるにあたって、一方的な要求をしてきた。『メコン川の中にできた島・中州はすべてラオス領とする』、これは今でも有効なんだそうだ。そんなこれやで、歴史を知るタイの人は、フランス人が今でも好きではないらしい。

 今度は南に下って、ムクダーハーン国立公園に寄った。交通が不便なのか、観光客は少なかった。外国人はほとんど見ない。しかし、溶岩が噴出してできたという、さまざまな奇岩や地形は絶景・壮大。観光地としても最高だった。
 溶岩でできた丘を上ると、東はラオスに連なる広大な熱帯雨林のジャングルが広がっていた。近くには高い山がないので、360度見渡せる。空にはほとんど雲はなく、気分は最高。岩の割れ目に流れる小さな小川の周辺には、小さな植物が色とりどりの可憐な花を咲かせていた。

道路封鎖、農民がお米の値段が安いと抗議行動
 車は再び、バンコックに向け出発した。しばらくすると、丘のような山影はなくなり、面の水田風景になった。しかし、よく見ると下の方が水に浸かっている。車が進むにつれ、水は大きな湖を作っている。洪水だ。
 車を止めよく見ると、まばらにある家も水に浸かっている。これは農家にとっては大変だ。ここに来るまで、洪水のことは誰も知らなかった。これは日常的な光景かも知れない。写真を撮る。この辺り(タイ中央部から東は)の川『ムーン川』と『チー川』は、メコンに流れる。先の道路が冠水してたらどうしよう、と思っていたら、やがて湖は消えた。
 しばらく走ると、今度は車が突然停止させられた。道路全体に木の枝が高く積み上げられ、若い農夫達が10数人で道路封鎖をしていた。警官も一人立っている。「どうしたんですか、何かあったんですか?」、ドライバーさんが駆けて聞きに行った。
 通れないそうだ。農民がお米の値段が安いと抗議行動をしていたのだった。「今いくらなんですか?」「だいたい1s、7バーツ(約21円)。以前は5バーツの時もあったそうだ」。
 1s、15円!、すごく安い。それでは、いくら物価の安いタイでも暮らしていけない。しかも、政府は、以前は輸出に力を入れ、農民の自給作物を無視した農業、化学肥料に依存した農業を進めたため、食べるものに困る農家が出てきたのだ。さっきのような水害が日常的にあると、更に深刻だ。
 だけど、タイの農民は明るかった。ちゃんと道路封鎖もできるし、交差点の真中に高さ2mものステージを作り、大きなスピーカーを並べて音楽を鳴らし、踊っている。こりや、日本で言うなら盆踊り。ドアを開けて出て行こうとしたら、テムが必死に止めた。気が立っていて危ないのかも知れない。結局、道路はドライバーさんの実家の近くとあって、なんとか通してもらえた。良かった。

 遅い昼食は、ドライバーさんの実家で取ることになった。右に田んぼ、左に林の細道をうねうねと進み、急にハンドルを左に切るとおじさんの実家だった。家の前のドロドロの道には、鶏やアヒル、首の長い鳥、犬や猫が右往左往している。アヒルはヒナがたくさん行列を作って、ウロウロしている。なんとも楽しい!
 鶏のヒナは雌ばっか「どうして!」と聞くと、雄は役にたたないので市場で雌だけを買ってくるそうだ。なんとも、鶏を飼うのも現金がいるのか。「猫や犬が鶏を食べないの?」と聞くと、「取ったら、ご飯が貰えないので取らない」そうだ、賢い。また、このあたりでは蚕を飼っていた。桑畑が懐かしい、昔の日本の風景のような気がする。

 みんなで休息、作業台の上に座っていると、お米の発酵したおやつを出してくれた。ご飯の形がそのままになった、甘酒みたいな物。美味しいけど少しで止めた。なぜって? なんでも食べる僕でも、外国の発酵食品は苦手なのだ。次に、地酒も出た、結構強くて甘い。
 食事は、魚の煮た物と卵焼きとライスだった。ご飯は大きなカップサイズ、竹で(?)編んだ籠に入って出てくる。品種は『香り米』、とても美味しい。以前、日本が緊急輸入したお米は評判が悪かったけど、ここのは本当においしいのだ。魚は辛かった。みんないっぱい食べてた。お礼はどうするのだろう?
 少し離れた所にお寺があると聞いたので、みんなで行った。大きく高い塔がある、上った。小さな窓からは、豊かな水田風景が見渡せた。階段のステップが狭くて高い、水が入ってピチャ・ピチャ。変に力んで45階上った時、足の筋を痛めてしまった。左足が上がらない。が、なんとか歩ける。よろけながらバスに乗り込んだ。夕暮れが近づく頃、ミニバスはバンコックに向け出発した。

 テムとの別れ
 帰路はタイ南部を通る。カンボジアのアンコール・ワットで有名なクメール文明の遺跡を見学していく予定だったのたけれど、時間が無くなってしまった。辺りはあっという間に日が暮れた。道路はバンコックに近づく程良くなっていく。
 バスの中は、テンポのいい歌謡曲がかかった。「タ〜ララ、タ〜ララ、トッタレラ〜」。最新のヒット曲。みんなで手を打って歌っている。何回もかけるので、すぐに覚えた。テムは、一番後ろの席で一人瞑想しているのだった。
 バンコックまで400q以上ある長い道程。対向車はほとんどなく、時速約100qで飛ばす。見える物はヘッドライトに照らされる道路ぐらい。時々、田んぼの横で人が頭にライトを付けて何かしてる。「あれ何してるの?」、「蛙とか昆虫を取ってるみたいだね〜」。テムも眠そうだった。
 みんな、長旅とお酒と歌で疲れた。ウトウトと眠ってしまった。タイの会社はなかなか休みが取れなくて、旅行は1年に1度ぐらいだそう。お盆休みやお正月休暇もなくて、3日間の休みをみな楽しみにしてたそうだ。いい旅だった、みんなも満足だったろ〜な〜。

 夜中12時前、タイのほぼ真中、ナコーン・ラーチャシーマー市に着いた。僕はラオスに行くので、ここで降ろしてもらった。みなとっても親切だった。ホテルを見つけるまで付き合ってくれた。ここからバンコックまで、あと23時間、皆が家に帰るのは午前3時ごろになってしまうんじゃないかな〜。ここまで1500qの旅。長かった。
 旅費の一部・ガソリン代を受け取ってくれとお金を差し出したけど、テムは決して受け取らなかった。またまたみんなに感謝。

 今夜のホテルは700円、広い部屋に大きなベット。奇麗なシーツにテレビ付き、天国だー。部屋に入るとすぐシャワーに洗濯。汚れたものがたまっていた。だいたい、着替えは日本からたくさん持ってこないもんね。疲れても深夜の洗濯、これって癌患者にとっていいのかな〜。
 しかし、がっかり。さっきのボーイ「これホット・シャワーですか?」と聞いたら、「イエス」と答えたのに、なんと水しか出ない。冷たいじやないか。仕方がない、英語がまったく通じないのだ。ここは外人ではなくタイの人がよく使うホテル、タイ語を使うべき。
 通じないタイ語でも、その方がおもしろい。ごみ箱貸してもらうのに15分もかかった、部屋に無かったのだ。ワォー!、ホカホカのベッド。でも、どんな時でも薬を忘れられない。飲んで寝た。

6  24日 コラートにて

 昨夜は長旅の疲れで、よく寝た。部屋を見回すと、荷物が散乱している。薬が少し減った。今日は完全休養日。
 ノンカーイ行きのバスを調べて、お家にファックスすることにする。地図を見ると、近くにマーケットがあるじゃん。よし、そこで遅い朝食だー。泊まったホテルの斜め向かいが市場の入り口。食べもの屋さんが並んでいた。鯉や亀、ん・・・、何にしようか。やっぱり野菜炒め
 ナコーン・ラーチャシーマー市は、タイの真中へんにある。あまり名前が長くて舌を噛みそうなので、一般にはコラートと呼ぶ。コラートとは高原という意味、どうりで涼しいはずだ。タイの第2の都市、大きいかと思いきや、1日で回れるくらいの都市。商店街は東西に1qほど。一局集中でバンコックが大き過ぎるのだ。

 僕はこのくらいの都市が好き、気に入った。市の周辺には、クメールの遺跡や、お寺がいくつもあってのんびり観光して過ごせる。ホテルのすぐ東が市の中心、モー婦人の像というのが立っている。2世紀前の人で、襲撃してきたラオス軍を撃退した英雄。像の回りの階段には、市民の憩い・待ち合わせ場所となっているらしく、いつも人が集まっていた。
 そこから南に少し行くと大きな広場があって、夜コンサートをやっていた。タイ音楽の『のど自慢』大会や演芸、市の表彰式みたいなこともしていた。小さな女の子が、大きな舞台で歌い始めると、会場からいっせいに拍手。なかなか上手、僕はタイの音楽好きだけど、とりわけイサーンの音楽は情緒があって大好きだ。
昼、北のバスターミナルに行った。バスがいっぱいで広かった。日本にはあんな大きなバスターミナルはない。どのバスがどこに行くやら、下見しておいて良かった。電車が少ないタイは、バスが主要な交通機関。しかもここはタイの真中なので、東西南北へ行く路線がたくさんあるのだった。
 昼過ぎ、ファックスを出しに行った。外は大雨になった。そこには利用者が誰もいなかった。A4が1枚で300円。高〜い。悩んだ。「もうちょっと安くならないの?」と窓口の女性に言うと、「タイは何でも安いけど、外国だったらこんなもんでしょう」と取り合ってくれなかった。当然か。
 家に携帯の電話番号知らせるため、どうしても必要だった。仕方がない、びっしり書いて送った。すると、料金を払わないうちに僕の携帯電話が鳴った。驚いた! 受付の女性も驚いた。なんで携帯持っているのに、わざわざとファックスしたの?と、思ったのだ。テムに貸してもらったけど、国際電話は高くて申し訳なくて出来ない。
 久しぶりのナツチャンの声、懐かしかった。みんな元気そうでほっとした。僕は元気だぞーー。楽しいぞーー。

 25 日

 朝8時起床、さてまたノーンカイに行くか。言葉がよく通じなかった従業員にお別れを言い、チェックアウトを済ませた。外は朝から埃っぽくて熱い。
 トックトック(タイのタクシー)を探すけど、なかなか来ない。いつもうるさく言ってくるのに、仕方なくバスターミナルに歩いて行った。昨日はたしか雨が降っていたな〜。今日は快晴。
 2030分歩いて到着。早速チケットを買う。1時間の余裕。今回の旅行のために買った、僕のお気に入りの880円のシマムラのリュック・サックの肩ヒモがほつれた。ベンチでコーヒー飲みながら縫った。この時、この町の郊外で大きな事件が起こっていた。軍の倉庫が大爆発したらしい。日本のニュースでも放送されたことを、夜のニュースで知った。
 出発時間になった。でも、バスにはナンバーがいくつも書いてあって、どのバスに乗るのか分からない。辺りの人に聞いても要領を得ない。一人の青年に聞くと、彼もノンカーイに行くけど分からないと言う。焦った。
 10分を過ぎた頃、ようやくそれらしきバスが入ってきた。バスは、すでにバンコックから客を乗せていてほぼ満員だ。外国人はいない、キョロキョロしてると、後から手招き、トイレの前の座席に落ち着いた。
 バスは満員、真ん中の通路に椅子まで置いて出発した。今日の夕方にはまたノンカーイに着く。一度行った所には不安はない。僕の隣にはさきほどの青年が座った。
 観光客の多いバスには睡眠薬をサービス・ドリンクに入れ飲ませ、金品を奪う事件が報告されている。深夜が多いそうだけど従業員も仲間ではかなわない。今までその手の事件にあったことはないけど、今の僕には命さえあれば十分だった。
 そんなこと考えていると、後ろからコップに入ったジュースが、僕にだけ差し入れられた。僕にだけ?すると先程の考えはどこへやら、お礼を言うと、すぐ隣の青年にあげた。彼はすぐ飲んだ。しばらく青年の様子を見た。どうやら昏睡はしない、安全なようだった。

 カナダ人のチュウ
 いつのまにか青年と話していた。タイの人だと、てっきり思っていたら、カナダからの旅行者だった。名前は『チュウ』、どうりで英語が通じるはずだ。僕は昨年バンクーバーに行った、友達も多い。彼はそのバンクーバー市からだった。「何で一人でラオスに行くの?何でそんなに荷物が少ないの?」「僕の両親は僕が1歳の時、混乱・内戦が続くラオスを出て、カナダに移住したんだ。今回初めて生まれた所に帰る」。「それは楽しみだね。ご両親は帰ったことあるの?」。「3回ほど帰った。老後はラオスに帰りたいとも言っている」。親戚を訪ねて旅行がてらにブラリと、初めてのアジアに来た。カナダと余りに違うので、すべてに驚いていた。外の暑さにも。
 いま彼は21歳。僕は彼のご両親と同じぐらいの年齢だ。彼のご両親と僕の過ごした半世紀は、ずいぶん違っているだろうなー。青年時代がベトナム戦争だ。しかし、ともかく、彼は立派な青年に育った、さぞ自慢の息子でしょう。そう言うと彼は陽気に笑っていた。彼とはずいぶん気が合って、バスの時間は楽しかった。

 突然、外は雨が降ってきた。それもバスの右側半分だけ。左側を見ると真っ青な空。おもしろいな〜、と思っていると、今度はバスの左右に大きな虹がかかった。きれいだ! すると今度は、チュウの肩に雨がポタポタ落ちてきた。バスの雨漏り。ガイドさんを呼ぶと、まったく落ち着いた表情で天井にティシュをつめた。なるほど! チュウも感心した。
 バスは、4時頃ノンカーイに到着。雨がまだ降っている。すぐトックトックが僕とチユウを見つけ集まってきた。僕はすぐ振り切ったけど、チュウはどう対処していいのか分からない様子だった。「行こう!」と、チュウを呼びレストランに誘った。バスは走りっぱなしで、昼食なしだった。お腹がすごく空いた。こういうのって体に良いのだろうか。

メイン・ストリートで食事を取ると、ホテルを捜しに行った。彼はアメリカ版『地球の歩き方』を持っていて、メコン川沿いのゲストハウスに行ってみたいと言う。
 行ってみたら満室、オーナーらしき人がアメリカ人らしかった。客はみな白人。さすがアメリカ版『地球の歩き方』。みんな同じ所に集まる。仕方がないので、彼はすぐ近くの安いゲストハウスに決めた。僕はもう少し良い、スリー・スターのホテルに決めた。それでも300バーツ、約900円。
 クーラーにホット・シャワー、衛星放送も見られる。ここでNHKのニュースで、コラートの爆発事件を知った。危機1っぱつだったのかな〜。爆発音が聞こえたような気がする、あの時たしかバスターミナルは停電した。
 ノンカーイはホテルが安い、五つ星のホテルが1500円で泊まれる。みんなにお勧め。ホテルは快適。シャワーを使って、遅い昼寝。起きるとまたお腹が空いてたので、町に夕食に出かけた。この町は早い、夜8時になるとほとんどの店は閉まっていた。開いてる店を探していると、向かい側からどっかで見た顔が〜。おー!チュウだった。
 少し懐かしい、抱き合って再会を喜ぶ。彼もレストランを探していた。今度は中華レストランに入った。客は僕らだけ、大きな扇風機が回っていた。彼は2日ほどこの町に滞在して、ビエンチャンに入るそうだ。
 「ひょっとして、また会うかも知れないね」、「また故郷で会いましょう」。「え!カナダ?、ラオス?どつちで」そんな話だった。チュウにタイ・マッサージを薦めた。僕の泊まっているホテルのフロント横でマッサージ屋をしてたので、二人で久しぶりに行く。
 ホテルの料金より、足裏マッサージのほうが高い。僕は2時間、足裏のセットで350バーツ。チュウは1時間。彼は、タイ語が少し話せる。してもらった女の子を気に入って、次の日、彼女にヘアーバンド持っていってあげたんだって。まあ、そんなものかな〜。
 僕は強くしてくださいと、男性を頼んだのだけど、最悪だった。テレビをつけていいか?と聞くのでOKした。するとテレビばかり見て、何度言っても真剣にマツサージをしない。NHKにしたら言葉が分からないので、見ないかと思ったらやっぱり見ていた。しゃーない、そんなものかも知れない。途中であきらめた。
 マッサージが終わると、12時を過ぎていた。明日はいよいよラオスじゃー!。わくわく!。そしてベッドに入った。

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