10  パワー・ボー卜は最高

31

 今日は、パワー・ボートでファイサイに行く。それから国境を渡ってチェーンコーンに行く。できれば、そこからバスでチェーンライに行く。忙しい。まずはメコン川を280q、8時間かかって北に遡る。途中バークベン村に寄る。すごくアドベンチャーの旅。
 ホテルを7時に出て船着き場に行くと、まだ誰もいなかった。ボートは客が集まりしだい出発なので、いつ乗れるか分からない。乗客はラオスの人が一人二人と現れ、2時間待って出発となった。 マヌーはこんな時、絶対にイライラしない、焦らない。見事だ。船賃は、値上がりして20万キープ、チョット高い。0が五つも並ぶ、でも約3000円。

 大河メコンの流れに任せて
 ボートは思ったより小さかった、座ってみると、膝を曲げたままで身動きができない。長さ78m、幅1mちょっと。二人並んで座ると、片手が川に出そうだ。オートバイのヘルメットをかぶると、隣の人のヘルメットにコチコチあたる。乗客は満員の8人と、ドライバー。右手をたらすと水面に届く。ピラニアに食べられそうだ。もっともここにピラニアはいないけど。
 「こんなんで300qも行けるのかな〜」マヌーと話していると、ボートはゆっくり岸を離れた。すると突然、アクセルを吹かした。アクセル全開だ。「オッー!オー!」。耳をつんざく轟音。ゴォー、ゴォー、汚く汚れたヘルメットの内側まで轟音が入り込んでくる。やがて時速100qほどになる。ボートの動力は自動車のエンジンをそのまま使って、下からスクリュウが伸びている。このくらいスピードを出さないと、メコンの流れに押し流されてしまうのだ。
 「ゴォー、ゴォー!何も聞こえん!」。マヌー「・・・」。日本語でしゃべってもおんなじじゃー。ゴォー、ゴォー!、寒い、この寒さは何だ!しかも、ゴツ!・ゴツ・ゴツ・ゴツ!、すごい衝撃。ボートが水面を跳ねては落ちる振動だ〜。連続マーサージ。おしりを浮かすだけで飛ばされそう。気がつくと、服のそでは水しぶきでベタベタに濡れてた。寒くて靴下がほしい。

  このメコンが、どのくらいすごいか数字で調べて見た。全長4000q、ヒマラヤ・チベットから流れ落ちる水は、中国は雲南から、ラオス、タイ、カンボジア、ベトナムと流れる。流域面積は80万平方キロ。どのくらい広いか見当が付かない。そこで日本の広さはというと、378千平方キロ、ざっと日本の2倍くらいある。
 その水が、わずか23百mの幅の谷の間を流れるのだ。すごい。台風19号の時、増水した矢作川よりすごい。だけど、あの時の水の色だ、どろどろの濁った色。早い流れの水面には太い流木や木の枝、ゴミや木ノ実や何かいっぱい筋を引くように流れてくる。メコンは蛇のようにうねっているから、波も来る。大きな波や太い流木にボートが乗り上げれば、アッと言う間に転覆。
 マヌーと僕は、目配せをしながらボートにしがみついていた。しかし、ボートは15分ほど走って突然、川の真中で止まってしまった。エンジンの不調だ。ドライバーが何も言わないのに、へ先の乗客が、川から突き出た木に掴まって、船が流れるのを止めた。僕らは、川の真中にポッンと取り残され浮かんでいる。

 辺りは静寂に包まれた。水の流れる音だけ。遠くの山々は緑を湛え、人の営みを拒絶するかのようだった。道や家、畑など人工物は見えない。しばらくすると、さっきのエンジンの耳鳴りがいつのまにか消え、気持ちが昔に帰っていく・・。時間が止まったようだ。
 僕は山の生まれ、毎日一人で山に登っていた。昔、山の中でこうやってじっとしていたこともあったけな〜。こうして止まることがなければ、じっくり考えることもなかった。
 突然、エンジンが動きだした。轟音。ゴッー!10分走ってまた、エンジンが止まった。船の上ですることがないので、僕は一人立って歌った。じっと座っていたので、膝が痛くなったのだ。1曲、日本の民謡。
 みんな喜んでくれたんだけど、何故か、ラオスのおばさん達は無反応だった。ど〜して無反応なんだ〜?。「次、マヌー。1曲歌って!」。マヌーは「どうして?、僕が歌うの?」。フランス人がシャイではなく、僕がお調子もんなのだ。彼は歌わない、音痴なのかもしれない。
 ボートはまた動きだし、しばらくしてまた止まる。「それにしてもこんな調子で、今日中にタイに行けるのだろうか?」「それも何かの思し召し、また楽しからずや!」。乗客で不平を言う人はいない。みんな黙っていた。

 エキサイティング! クレージ〜!
 轟音と振動で我慢できなくなる頃、船は小さな船着き場に止まった。船にトイレもないので、トイレが大変。最初の2時間は必死にこらえた。午後1時過ぎ、バークベンらしき所に到着、それぞれ食事をした。
 船は45カ所止まって、上流に向かう。ほとんどの船着き場からは、村が見えない。警官らしき人や物売りがいただけ。ある船着き場では、若い女性が小さなクーラー・ボックスを足元に置いて、一人ポッンと座ってたりした。アイス・キャンデーを売っているのだ。ほとんど誰も来ないのに、ズーッとそうしているのだろうか。
 そんな女性に船の乗客は、「お金を渡したら、何々を買ってきてあげるよ」、などと話していた。現代にあっても、そんな質素な生活もありなのだ。何かジーンと来る。町に出ることはあまりないのだ。

             

 乗客は全員何故か、次々とボートを乗り代えさせられた。どうもドライバーは個人営業、船主に船を借りて走らせているらしかった。バークベンで乗り換えた船は、静かだった。しかし、沖に出ると、ドライバーはマフラーを取り外した。やっぱり物凄い音になった。マフラーを外すとパワーが出る、音とパワーは比例すると思っているらしい。「それなら、何でマフラー付けてたの?」と聞くと、「村の人に配慮してるの」だって。
 メコン川で漁をする船は23隻見ただけ、あとは逆方向のボートを数隻見た。この辺りのメコンは流れが速く、両側の山が迫っているためか、生活の場ではないようだった。
 約6時間後、ファイサーイに思ったより早く4時前に着いた。全身が痛い、体も耳もコチコチに固まってしまった。陸に上がっておもいっきり背伸びをした。マヌーは足が長いので、狭いボートはことのほか大変だった。彼は頭の上が痛い、頭痛がすると言った。「しかし、エキサイティング。すごい経験だったね〜」「クレージ〜!」。同感だった。

ゴールデン・トライアングル
船着き場からイミグレーションまで2q、トックトックで行く。普通の民家のような小さな建物。パスポートを見せるだけでOK。
階段をコトコト下りて、長ーいボートで川を渡るとタイだった。乗客は僕らだけだった。これで『ラオ』ともしばらく、さようなら。皆さんおじゃましました。ありがとう。(ラオスのことを『ラオス』と呼ぶ人はいない、みんな「ラオ」と言うのだった)
 ファイサーイの対岸、タイ側の町はチェンコーン。チェンコーンは麻薬栽培で有名な、ラオス・ミャンマー・中国・タイの接する国境、『ゴールデン・トライアングル』に近い町。タイの最北部にある。
 近くのチェンセーン村はゴールデン・トライアングルですっかり有名になり、おみやげ屋がたくさんでき、麻薬博物館もあるそうだ。タイ側は今や、秘境でも何でもない、ただの観光地だった。
 チェンコーンの町を歩きながら、マヌーは両替をした。チェンライ行きの最終バスは午後5時出発。30分前にようやくたどり着いた。ぐったり疲れた、食欲はあまりない。隣に市場があったのでオレンジとパンを買った。
 バスは定刻どおり出発。乗客は地元の人10人ほど。さすがにタイの道路とバスは乗り心地がいいなー、とウトウト眠くなる。あと23時間はバスの中、今晩の寝る所は簡単に見つかるだろうか?マヌーを見ると、寝ているようだった。

 灯籠流しの祭り            
 急に窓の外が騒がしい。何だろうと見ると、神輿(みこし)を担いだパレードが道路を進んでいた。民族衣装を着た百人程の人達が、手に何か持って歩いてる。今日はお祭りなのだ。夕イの祭りと言えば『水かけ祭り』と『象祭り』、そしてこの『灯籠流しの祭り』。花で飾られ、ローソクに火を灯した灯籠を、川の女神に感謝し流す。収穫祭であり、罪や汚れを水に流し、魂を清める祭りでもある。日本の灯籠祭りと、ルーツは同じなのかも知れない。スコータイで始まったとされるこの『灯籠流しの祭り』は、現在タイで広く盛んにおこなわれ、特にチェンマイやこの辺りが盛んだ。
 バスを降りて見ようかとも思うけど、次々とバスの通っていく村でパレードにあう。降りてしまうと、それぞれのパレードが見られないので、そのまま見ていた。それぞれの村で、神輿の形や大きさが違った。先頭の人が持っている、高く捧げられた竹に付いた飾りは、日本のどこかの田舎で見たものと似ている。
 「ウィ・アー、ラッキー。僕らは幸運だ!」、どこに行っても祭りが付いてくる。やがて辺りが薄暗くなると、家の玄関や塀の上にたくさんの火が灯された。バスの行き先を照らしてくれるかのようだ。きれい、幻想的だった。ヒョットすると僕の未来も、こうして照らしてくれる光があるかも知れない。

  こうやって疲れる方がガンに良いのかも? 
バスは8時頃、チエンライのバス・ターミナルに着いた。ウロウロする時間はない。僕はリュックとギター、マヌーは大きなずた袋を持ってホテルを探しに時計塔(中心街)に向かった。しかし、残念、安いホテルがない。ぐるぐる歩いて、荷物が重たい。仕方がない、遠いけどガイドブックに載ってる安ゲスト・ハウスに向かった。
 そこは古〜い木造。つまり、部屋は真っ黒でとても汚い。若い西洋人のバック・パッカーが集まっていた。普段なら泊まらないけど、一晩だけならOK。二人部屋で120バーツ。一人180円、値段通りの部屋だった。こういう宿はトイレット・ペーパーもない、従ってロールを常時1個持って歩く。
 マヌーがこの部屋の方が良いと言って、一人部屋ではなく、二人部屋を指した時、僕は一瞬緊張した。『彼はホモかも知れない?』 ついに来るものがやってきた、とどこかで思った。しかし、その夜何事も起こらなかった。
 荷物を置いて、重たい腹ぺこの体を、引きずるように町に出て食事をした。また歩いてホテルに帰って、ようやく寝た。本当に疲れたのでした。こうやって疲れる方がガンに良いのかも?

111

 昨夜マヌーは眠れなかったらしく、体調はいまいち良くない。夜遅くまで何人かがカウンターで騒いでいたのが、部屋まで聞こえた。彼らは大音量でロックをかけ、ビールを飲んでいた。僕はたいして気にならない。どちらかと言うと、静かな方が恐い。でも彼はうるさいのが苦手だ。旅の疲れもたまったのかも知れない。
 旧市場に出かけた。マヌーが「ベトナムではこの時間には、市場が終わっているのに、タイではまだ開いてない」と。もう10時近くなのに、お店は半分ほどしか開いてなかった。今日は休みなのかも知れないけど・・。
 僕はお粥、だけどお米は固かった。マヌーは朝からヌードルを食べた。変わっている。彼は本当に麺が好きだ。僕は、朝から麺は食べられない。ヨーロッパ系の人は、「スープ麺」はあまり好きではない。特に友人のドイツ人は戦中派で、戦後の食料難で肉とパンが食べられなくて、ヌードルで空腹を満たしたそうで、麺はあまり好きではないと言っていた。

『山岳民族博物館
 ホテルに帰ると、また荷造りして宿替えだ。マヌーは荷物を持って歩くのがイヤ。CDやら本やらで、とても重たい。でもトックトックが見つからない。また荷物担いで中心街に戻ってきた。
 今度はきれいなシーツ・静かなゲストハウスを見つけた。シングル、1500円。シャワー・トイレ付き、きれいなお庭。オーナーは、ヨーロッパ人とタイの婦人だった。
 ホテルで少し休息して明日のバス、チェンマイ行きの時刻を調べに行く。チェンマイは、13世紀のランナー・タイ王国の首都だった所。現在タイ最北の県都で商業都市。周辺の山には少数民族の村々があり、彼らが買い出しに来る町でもある。でも、町の中央にデーンと刑務所があるのは、どういうわけなのか。この町では、まずは彼らのことを知らなくてはと思い、『山岳民族博物館』に行く。刑務所の横を通っていく。入場料値上がりして、スライドとドリンク付き200円。

 ここは、「PDA」と言う山岳少数民族の支援組織が運営しているもので、収益は子供達の教育や生活改善に当てられると言う。入館者はあまりいないようだ。
 民芸品の販売やツアーの企画、それぞれの民族の写真・生活用品の展示がある。麻薬・ケシの栽培についての展示が目を引いた。世界中の約半分の麻薬が、アジアで生産されているそうだ。現在でも栽培が行なわれている。どんなに山の中の生活でも、今は現金がいる。手っ取り早い現金収入なのだ。それが回り回って日本に来る。

 スライドで、少数民族の映像を見る。主な五つの民族の紹介があった。特にアカ族は興味を引いた。どてらに着物、顔つきを見ても日本人に似ている。村の入り口に魔除けの鳥居を立てるとこなんかは、同じルーツと感じる。できれば行って調べてきたい。神社・神道は日本固有のものと思っていたけど、案外違うのかも知れない。
 夜は、『灯籠流しの祭り』のパレードを見に行った。夜7時から出発すると聞いて、時計台の交差点に行く。通りはすでに人で埋まっていた。メイン・ストリートは、片側通行止め。トラックや車に引かれた山車が集まっている。山車はおよそ10台。学校や会社、少数民族のグループが山車を作って参加している。ここから灯籠流しのコック川の公園まで、数千人の参加者でねり歩いて行くのだ。
山車はそれぞれ、蓮の花やお寺・山岳民族の家を型どった電飾に飾られていた。その中に民族衣装を着たミスなんとかや、子供達が乗って笑顔を振りまいている。それぞれがいろんな音楽を流し、着飾った仲間が取り囲んでいた。パレードの先から最後尾まで数百m、マヌーとキョロキョロしながら歩いてしまった。飽きない。

             

 1時間ほどしてパレードはようやく出発。人混みの中で並んで見た。パレードはゆっくり進んで、全部の山車が出発したのは1時間以上後だった。立ってるのに疲れてきて、最後はしやがみ込んでしまった。
 マヌーも「疲れた、帰ろうー」。僕も灯籠流しが見たかったけど、帰ることにした。『また』がある。『明日』がある。ふと、ビルの上を見ると、真赤な光が二つ三つ。夜空に熱気球。ゆっくりと登って行く。高度100m以上に浮かんでいる。幻想的だ!ゆらゆらと、ろうそくが燃えているのが見える。「あんなのが落ちてきたら火事になる」と心配してタイの人に聞くと、「どうして?」と逆に聞かれた。

「ランディーに気をつけてー」
 夕食に、ナイト・マーケットに行った。パレードにみんな行ってしまったかと思ったら、こちらも人でごった返していた。祭りで近隣の人や観光の人が集まっているのかも知れない。大きな食堂街が二つ。一つは観光客用の洋風スタイル、もう一つは現地のスタイル。当然、僕らは現地のスタイルの屋台で食事をした。両方に大きな舞台があって、無料で踊りや音楽が聞ける。民俗音楽を聴いた、どうも引き込まれてしまう。そういうのって、僕だけなのだろうか。
 何故か、屋台に日本食があった。タイのおばさんが作っていた。看板に『ふとまけずし』と、書いてあるのが愛嬌。試しに食べてみた。味噌汁にカマボコ・サラダ、ふと巻き寿司。マヌーは野菜の天ぷら。ん・・? 味噌汁はワカメの代わりにノリが使ってあり、何かジャリジャリと砂っぽい。『ふと巻』は、ご飯に胡麻がしっかり交ぜてある。何か変だった。
 食後マヌーは一人で帰り、僕はマーケットを冷やかしに出かけることにした。マヌーは「ランディに気をつけてー」と、ニャッとして帰っていった。「ランディ」とは何ぞや?トックトックのドライバーは僕らを見ると、「ランディはどう?ランデイは要らないか?」と声をかける。どうも『ランディ』とは『レディー』のことらしかった。
 久しぶりにマヌーと別行動、一人になった。何か、とっても自由な気がするので変だった。

          

11  2日 チェンマイに行く

 今日はチェンマイに行く。バスは10時過ぎに出る。ターミナルはゲストハウスのすぐ裏なので、のんびり。
 マヌーがゲストハウスで珍しくシリアルの朝食を取った。僕は日本から持ってきた、インスタントの味噌汁を作った。マヌーにすすめた。マ〜マーと言う顔、ヨーロッパ人はまず飲めない。梅干しは必ず顔をしかめる。梅干しは薬として、必ず持ってくる。日本とは違った食べ物や疲れで体が浮いたようになる時飲むと、胃が落ち着く。それ以外ほとんど食べものは持たない。今回は『枇杷の実』や数種類の栄養補助食品、病院の薬数種類等で、飲むのに忙しくて梅干しもあまり減ってない。
 さあ出ようと、ゲストハウスの人にお別れを言うと、引き留められた。え!どうして?宿泊代を請求された、うっかり払うの忘れていた。
 今日も晴天、暑くなりそうだ。すでにじっとりと暑い。僕らはパンとドリンクを買って乗り込んだ。バスは週末でか、満員。外国人も数人。通路までいっぱいになると出発した。車内は更に暑くなった。
 ほとんどの外国人は、エアコンバスを使うのかな。僕らはエアコンなしで十分。エアコンは寒すぎる。ただ、足元が狭いので、マヌーはいつも窮屈そうだった。バスは一度ドライブインで休憩。普通のスナックに混じって、ラオスで食べた筒入りのもち米を売っていた。食べた。

歴史のある古都、チェンマイ
 寝てしまって、気がつくとチェンマイの東郊外のチェンマイ・アーケードに到着した。マヌーは以前来たことがあるので、彼の知っているゲストハウスへと向かった。
 チェンマイは歴史のある古都。11qほどの真四角の城壁と堀りに囲まれた、きれいな都市だ。最近は、海外からの観光客のみならず、日本人が老後や第二の人生を過ごそうとやってくると聞く。さてさて、どんな町なんだろ〜と、トックトックに乗ってワクワクして辺りを見る。
 相変わらずどこも埃っぽくて、人々の生活はタイそのもの。町は思ったより大きくて、高いビルがいくつもある。城壁の内側が旧市街、外側にグルッと新市街が広がり『ただ今、発展中』と、いった感じだ。
 トックトックは、城壁の内側に入って行く。水を湛えた堀や古い城壁は落ち着きを感じる。緑も多い、お寺も多い。市内に100あまりのお寺があるそうだ。僕らは、安宿の集まるソンペット市場の近くに降ろしてもらった。
 彼が知っているゲストハウスは、すでに満室だった。評判の良い所はいつも満室。マヌーは自分でホテルを決めない。僕がOKならば、それで賛成する。ヨーロッパ人は自我や個性が強いと思っていると、そうでない人もいるのだ。そこから少し離れて600円。4階、共同トイレにエアコンなし。階段は疲れるけど部屋からの眺めは抜群だ。少し休憩して、散歩と夕食に出かけた。

 夕食は『お粥屋』さんがあったので食べた。量が少ないけど、これがまたおいしい。また食べに来ることにしよう。夕食の後は、チェンマイで有名なナイト・バザールに行った。チャン・クラン通りを中心に南北に広がるバザールは、夜だけだけど非常に大きい。屋台、食べ物・偽ブランド・民芸品・雑貨、何でもあり。デパートもある。飽きない。
 路地の商店街を入った一角には、ロック・クライミングのできる遊戯場もある。これは欧米人の若者が好き。観光客が多いということだね。高さ15mほどの垂直に作られた壁を、素手でよじ登っていく。見ていると何人かが挑戦していた。安全ロープを引っ張ってもらい、5mほどでギブアツプする人もいるけど、23分で上まで上がって鐘を鳴らす人もいる。
 マヌーは23年前までしていて、この程度は簡単に登れるそうだ。ところが、彼は急に興味がなくなって止めたそうだ。今は仏教に興味がいっている。僕は、恐くて絶対に登る気はしない。それより何故マヌーが、変わってしまったかに興味がある。
 前日からの疲れもあってか、マヌーが元気がない。23時間歩いてゲストハウスに帰った。僕は、体が固くなっている気がしたので、マッサージを2時間ほどして帰った。部屋からテラスに出ると、真っ暗闇にボーッとユラユラ揺れる熱気球が一つ二つ浮いていた。

3 日

 朝一番にテムから電話、「そちらに行きます、今どこにいるんですか〜?」。チェンマイで会おうと、数日前から連絡を取っていた。今から3人でお寺の施設に行くのだ。テムはバスでバンコックを夜出発して今朝着いた。
 久しぶりのテムとの再会、とっても楽しみ。ゲストハウスの下で待つが、なかなか来ない。どうしたのかな〜と表通りをウロウロして帰ると、1台のトックトックがやって来た。
 テムと友達のドライバー。彼はチェンマイに来ると、決まって彼を1日雇うそうだ。「久しぶり、元気だった?」と、抱き合う。マヌーを紹介した。マヌーもテムと同様、顔に表情をあまり出さない。

 ここのお湯は一級品、温泉の効用
 「少し時間があるので温泉に行きませんか」「大賛成」。マヌーはパス、ここで待っているそうだ。タイにはあまり温泉がないのだけど、チェンマイには温泉保養施設があるのだ。
 トックトックで郊外に30分ほど行った森の中に、立派な施設があった。入り口で30円。入浴90円。源泉は100℃以上。森の中に熱湯が噴き出してる。そこから小川が流れていて、遊んだり中に足を入れて足浴ができる。まるで大きな公園。
お風呂の中に入るのは久しぶり、しかも温泉だ。最高〜!浴室は全て個室、3畳ほど。残念ながら、露天風呂や大浴槽はない。大きな蛇口をひねると、チンチンの源泉が出てくる。それを水で薄める。良い湯だ。僕は病気になるまで、お風呂は嫌いだった。小さい頃、熱いお風呂に無理矢理入らされた後遺症だ。しかし、ガンに温泉が有効と聞いて、あちこち廻って、今では温泉に詳しい。ここのお湯は一級品だった。
 お湯からあがってテムを見ると、服はベタベタ、川で溺れたようだった。「どうしたの?」「温泉のお湯は拭かないほうが良い」。確かにそうなのだ。タイは暑いので自然に乾く。
 そうなんだけど。タイの人は濡れても平気なんだな〜。雨がザァザァ降ってきて、びしょ濡れでも慌てない。日本人が同じようにすると、何故か風邪を引く。
 ゲストハウスに帰ってくるのが20分遅れた。テムはタイ時間で生きている、僕は少し焦った。彼は温泉に入る前、しっかり瞑想に入っていた。帰ってくると、マヌーがポッカーンと何することもなく待っていた。
 彼以外、ゲストハウスには誰もいない様子。ここのゲストハウスのおじさん、古いバイクを直していたり、どこかに行ってしまう。何か僕と通じるものがある。

inserted by FC2 system